Arnaud Boissieres 10位

Arnaud Boissieres takes tenth place.



English Original

Arnaud Boissieresは10位でフィニッシュしました。

2月17日

 

夜明けを待ちながら、微風の中で、遅々として進まない最後の夜を海上で過ごしていた、Arnaud Boissieresは、今日、金曜日の朝、UTC08:26にVendee Globeのフィニッシュラインを越え、単独無寄港世界一周レースを10位で終えました。バンディグローブのスタートとフィニッシュの港レ・サーブル・ド・オロヌに家を構えているこのスキッパーは、優勝者に28日と16時間48分23秒の遅れでレースを完走しました。これは連続3回目の参加です。Boissieresの完走時間は102日と20時間24分9秒でした。彼は28,155マイルを平均速力11.4ノットで帆走しました。

 

このフランス人スキッパーはレースの最終段階で、ニュージーランドの競争相手Conrad Colmanが先週の金曜日にマストを折った後、追い抜いて10位になりました。彼は20人スタートして11人がフィニッシュした2012-13年のレースで91日と2時間9分で8位になり、30人がスタートし11人がフィニッシュした2008-09年のバンディグローブでは105日と2時間33分で7位で完走しています。彼はこの大会で優賞したArmel Le Cleac'hと同様バンディグローブレースで3回成功裏にフィニッシュした唯一2人の単独レーサーになりました。Le Creac'h は2008-09年で2位、2012-13年で2位、そして2016-17年で優勝しました。

 

このレ・サーブル・ド・オロヌ在住のスキッパーは彼を評価している地元の群衆の暖かい歓迎を受けました。彼らは彼の住まいのわずか数百メートルにあるホームマリーナLa Mie Calineniに近い伝統のある水路のそばに並んで彼を歓迎しました。フィニッシュラインに達した時に、彼は最も接近していたライバルのFabrice Amedeoをおよそ170マイル離していました。Fabrice AmedeoのNewest-Matmut号は同年代、同デザインそして同じ速力、同性能を持っています。この2隻は、Boissieresがレースの最後の2週間で更に引き離すまで、太平洋で、そして大西洋の上りで、接近したレースを繰り広げていました。

 

 44歳のBoissieres は若い時に白血病を患い治療していました。その時父親が世界一周レースのスタートの見学に連れて行ってくれました。そしてそれから彼はバンディグローブに魅了されました。子供のころ彼は小柄な体形と優れたユーモアのセンスにより「Cali」と呼ばれていました。彼は格調高いIMOCA外洋レースの世界に飛び込む前に、3回参加したLa Solitaire du Figaro レース、3回のMini Transat レース(2001年に3位)への参加を経験して外洋レースのキャリア積み重ねました。彼は前回の大会の前に、家をアルカッションから彼の前のスポンサーが基地にしていて、マリーナの周りでヒーローを普通に見かけるレ・サーブル・ド・オロヌへ移しました。

 

スタート前に彼はバンディグローブの夢の起源を話しました:「私が17歳の時、私は白血病におかされました。そして治療を受けていました。父がバンディグローブのスタートを見る観覧艇の席を最後の最後で2枚確保してくれました。1989年、この大会は私の病気を克服するために役立ちました。それは私に克服することと夢に向かう希望を与えてくれました。」そして、それぞれのレースでどんなに結果が違っても、蓄積された経験がいかに役に立つのかを話しながら、彼は言いました、「当然のこととして、未知の要素はほとんどわからないものです。しかし、筋書はいつもある大会と次の大会では違います。今年はとても魅力ある正々堂々とした勝負がありました。私の艇と同じ世代の艇で数多くのスキッパーが出発しました。さらに私は父親になりました。このことは私にさらなるモチベーションを与えました。」

 

彼はバンディグローブの出発のわずか数週間前に、生まれた乳幼児でおよそ4カ月の息子Leoと大急ぎで会いました。実際のレースでは、Boissieresは彼の前のレースと似たパターンをたどりました。彼は控えめにスタートを切りました、最初のうちはライバルたちの早いペースに合わせようともがきました。しかし彼の天候頼みの戦略は全くうまくいきませんでした。彼は12位に落ちるゆっくりとしたスタートをしました。最初の日の午後、バラスト・ハッチが不意に開き、そして水がエンジンの囲いを満たすほどなだれ込みました。これはスターター、キーボード、そしてビデオ機器にダメージを与えました。彼の最初のルート設計は確定的ではありませんでした。彼はマディーラの東へ航海しました。しかし、やがて、Kito de Pavant に追随しようと、カナリア諸島周辺に達するために西へ戻らざるを得なくなりました。一方で先頭集団はどんどん先へ行きました。

 

彼の10回目の無風地帯の横断では、彼のコンディションはとにかくいい状態ではありませんでした。そして赤道を15位で越えました。赤道を越えた後、彼のスターターはレーススタート時の水の浸水で動きを止めました。48時間後、どうしようもない微風の中で、Boissieresはブラジルの海岸に近づく西寄りのルートを選びました。この選択は彼を19位にまで落としました。「昨晩は地獄でした。2時間のまったく風のない中での滝のような雨、艇は止まり、そしてしばらくの間舳先は北をさえ向いていました。人は何ができるのかに疑問を持ち始めます。」

最終的にちゃんとしたスピードで喜望峰へ向けて東へ舳先を向けた時、彼のメインセールのカー(送り金具)がレールから外れました。彼はメインセールを降ろし、修理をするためにより静かな状態になることを待たなければなりませんでした。La Mie Caline号は喜望峰の経度を12月4日日曜日に28日と4時間19分、Alex Thomsonに遅れること10日と5時間21分で通過しました。

 

Kito de Pavant が未確認物体に衝突し、彼のボートから救助されざるを得なくなった後、Boissiersは警戒体制をとり続けることに緊張を強いられました。ライバルたちが作り出した同じペースでいましたが、ケルグレン諸島に近いインド洋での状態は彼に断固とした態度をとることを決断させました。「時々、私はこれらの前にいる人たちと同じようにしようかという感じになりますが、そうすることを抑えています。フィニッシュラインはリーウイン岬ではないのだと。」彼のメインマストのカーを修理した後、システムが再び故障しました。事故が発生した時、強風が吹き、Boissieresはさらなる修理をすることを控えなければなりませんでした。

 

南極大陸進入禁止ゾーンに接近して帆走し、Boissieresは非常に冷たい天候を経験しました。そして、流氷が点在するゾーンから遠くないことがわかりました。彼は12月18日に42日と10時間35分でリーウイン岬の経度を通過しました。これは、2回のバンデイグローブレースと1回のマルティハル艇Geronimo号での航海の後の彼の4回目の通過でした。彼は言いました:「それが容易ではないとしても、2016-17バンデグローブで海の上にいることはなんと素晴らしいことだろうか。」クリスマスの前の週の間、Boissieresは彼のセールとバテン(セールの中に入れる細い薄い補助材)をさらに修理しなければなりませんでした。彼自身は孤独なレースの中でしたが、彼はEnda O Coineen と Alan Roura と一緒にレースをしていることを発見しました。前回のバンディグローブのレースでBoissiereは独特なやり方でクリスマスを祝いました。「静かな、サンタクロース(Father Christmas)、バンディグローブは一人でレースをすることになっています。レース役員たちがもしあなたがいることを発見したならば、彼らは穏やかではないでしょう。」クリスマスイブに彼は50日のセーリングの後で10位でレースの半分の地点を通過しました。太平洋で、Rich Wilson、Alan Roura、Eric Bellion、そしてFabrice Amedeoの傍で、Boissiersはレースをしていることがいかに楽しいことかと再び緊張を感じました。「私は毎日信じられないような何かを経験している、私は本当にここにいる特典を与えられているのだと自分自身に言い続けました」

 

いいスピードを維持できる風で太平洋の最初の半分を過ごした後、後半は時々の微風でスピードが落ちました。「これは本当におかしい。南緯54度で、私は動けません。風がありません、セールは垂れ下がっています。脳細胞が疲れ、多くのコ-ヒーとお茶を求めています。忍耐が本当に求められています。」彼のモティベーションはRoura、Wilson、そしてAmedeoとのレースをすることでした。1月10日、彼らを視認しました。1月16日、レース70日目にBoissieresは3回目のホーン岬を回りました。フォークランド諸島の周りの状況は良くありませんでした。風が変わり微風の状態でした。「私が初めてのバンディグローブに出る前、Benoit Parnaudeau(2004-05大会で10位)が私に忠告しました、『ホーン岬を超えた後、わかるだろう。それは非常にきついと。』それは本当です。しかし、4年前と比べてすべてがスムーズに運びました。」Fabrice Amedeoとの戦いは続いていました。この2隻はFarr設計の姉妹艇でニュージーランドで建造されました。一隻はJean-Pierre DickのPaprec Virbac 2号として、そしてもう1隻はLoick PeyronのGitana 80号としてです。東への航海を行い、Boissieresは彼に一番近いライバルの前を行き11位になりました。そしてその順位で北回帰線を超えようとしていました。そして彼はマストを折ったColmanを追い抜いて10位になりました。

 

訳:Watson Courtier

as of March 1.2017.