Conrad Colman 16位

New Zealand's Conrad Colman takes16th place.



English Original


Conrad Colman Ocean Racing : NY Vendee


Conrad Colman Ocean Racing : Vendee Globe

ニュージランド人、Conrad Colmanは応急処置の装備で16位でフィニッシュします。

2月24日 2017年

 

ニュージランド人のConrad Colmanは、彼が第8回単独無寄港世界一周レースのフィニッシュラインを応急処置の装備でフィニッシュしたした瞬間、バンディグローブ の歴史に新しいページを書き加えました。彼は14:00UTCにフィニッシュラインを越えて16位になりました。かかった時間は110日と1時間58分41秒です。彼は27,929マイルを平均速度10.57ノットで帆走しました。

 

10位の彼がポルトガルのリスボンの西250マイルで、2月10日金曜日の夕方遅くマストを折った後、Colmanは驚異的な応急装備を作り上げ、それで2016年11月6日にレ・サーブル・ド・オロヌをスタートした27、440マイルレースの最終740マイルを帆走することを可能にしました。彼が遭遇したレース中の最後の大きな嵐の中でマストを折って以来、感動の10位が確実だと思われたフィニッシュラインまでわずか3日半のところで、Colmanは食料が尽き、最後の日々をライフラフトの中のサバイバル配給量で続けました。水曜日、彼は無線でわずか2枚のビスケットしか残っていないと連絡してきました。

 

訓練されたセールメーカーで艤装屋のColmanは、向きを変える角度を究極まで向上させるため、そしてそのためにブームとメインセールとストームジブの一部によって作成した艤装の効果を究極まで向上させるため、一生懸命に、そして厳しく作業して、外洋レースの歴史の中で見る最も効果的な応急措置の一つをしました。

わずかにPhilippe PouponとYves Parlierだけがかつてバンディグローブを応急艤装で完走しています。その他は、Mike GoldingとLoick Peyronのように応急艤装を彼らの艇を陸に戻すためだけに作成せざるを得ませんでした。

彼は化石燃料を使わず、革新的な電気モーター、太陽光発電そして電気を生み出す水流発電によって生成されハイテクバッテリーに蓄えられた電気の再生エネルギーだけを使って単独無寄港世界一周レース、バンディグローブを完走するという今までのスキッパー達が成し遂げたことのない初めてのスキッパーになるという彼の目的を成し遂げました。レ・サーブル・ド・オロヌを出発する前に彼は説明しました:「

 目的は私の哲学の反映して物事を成すことです。ニュージーランドで育って、私はそこにあるオゾンホールの層を気にかけていました。私は特別に可愛い子羊について気を使うためだけではなく、もっと食物生産や摂取の連鎖についての世界的な影響を気にしていたので菜食主義者に変りました。そして、そのためプロジェクトも私の理想の反映なのです。」

 

スタート以来全世界のレース観戦者たちを魅了した記録に残る冒険物語をまとめた彼は、また壮大な単独無寄港世界一周レースにフィニッシュした初めてのニュージーランド生まれのスキッパーです。彼のフィニッシュは彼の信じがたい粘り強さ、実行力、そして有能さがもたらしたものです。伝統ある単独世界一周レースで競うという自分の目標を追求することを10年前に夢見た高揚感が彼にアメリカからフランスに移住することを決意させました。

亡くなった彼の父親から受け継いだアメリカでの学問と事業の経歴を追求することから離れて、Colmanは、彼がバンディグローブで競い合ってフィニッシュことができるレベルに彼のスキルセットを広げるために分野の違う海に関連した仕事で働きました。スタート前に彼は、レースに参加するためにどのように財政的な将来を賭けたかについて話しました。彼は南アフリカ人のAngelo Lavranosが設計したあまり程度の良くないIMOCA60を見つけました。それは彼の住んでいるロリアンでは、今までにほとんど限られたレース履歴しかもたない艇でした。そして、それはそこで一日チャーター貸出用(観光船)に使われていました。そして彼が艇の本当の隠された性能を引きだせるようにするため再艤装され艇の性能は再度最大限に高められました。

レースがスタートする10日前になってもなおColmanは彼が競争に参加するために準備する最低限の水準と考える資金を完全に集めていませんでした。しかし、彼は何としても参加すると決心していました。全く最後の最後でロンドンのForesight Groupから資金支援の申し入れがありました。彼の艇は11月6日のスタートのわずか2日前に刻印が押されました。

 

スタートの日、彼は言いました、「素晴らしい、そう感ぜずにはいられません。バンディグローブのスタートです、そしていい天気です。これは何年も何年も私が追い求めた夢です。そして、私は今手にしてここにいます。妻に別れを言うのは辛いことでした。私は結婚指輪をコクピットの中にかけています。それで彼女はいつも私と一緒にいます。」

彼の精神と技術は、公正な秤と普通は弱小セーラー達のバンディグローブは終わってしまうであろう状況を彼が覆した多くの出来事で試されました。レースに入ったわずか数日間でさえ、彼は彼のレースを危険にさらすキールの触角の問題を修理する画期的な方法を発見しました。彼のForesight Natural Energy 号の電気による火災の損害を受けたケーブルは自動操舵装置をめちゃくちゃにしました。信じられないことに12時間のうちに彼はマストに3回登りました。そしてセールを修理するために高い空中で時間を過ごしました。バンディグローブで生き抜くために要求される彼の広範囲な個人的な武器作成能力の中でも、ほとんど使い古されたスキルを使ってでこの33歳はマスト登りをしました。それは、Colmanがその遺産を尊敬している彼の父親がマストのトップから落ちて命を奪われたという事実にもかかわらず行われました。

 

レースコースで最も遠い地点の太平洋の真ん中で、Colmanはこのレースで最大の嵐の一つが通過するのに遭遇しました。マストを支えているフォアステイがピンが壊れて外れました。彼のIMOCA艇は横倒しになり、大波と40-45ノットの風の中に数時間留まりました。彼はフォアステイを交換する修理に4日間を費やしました。最終的に彼は2014-15年にハンガリー人のスキッパーNandor FaのSpirit of Hungary号で一緒にレースを行い8位になった Faとの接触を失いました。

 

Conrad Colmanの特筆すべきバンディグローブ

 

11月9日:Conrad Colmanはコロラド大学の政治科学科を卒業しました。彼はドナルド・トランプ選ばれたというニュースに反応しました。「それにはちょっとゾッとさせられました。ニュースが伝えられた時、私は私の叔父が冗談を言っているのだと思いました。その場にいなくて幸いでした。」Colmanはマディーラ島への進路でLouis Burtonと接近して帆走した後、17位の順位を彼に与えてしまいました。「海はすばらしい。3週間もセーリングをしないでいても、海に出れば艇についてはすぐにわかります。しかし、日常生活に戻るには少し時間がいります。少し新しい艇を持っているLouisに向かいあって学ぶことができるということはいいことです。」

 

11月11日:彼は望んだ以上にマディーラ島に近づいてしまいました。「島の地域効果は本当に速度を落としてしまいました。私はマディーラの山頂の影響を逃れようとしました。そして、本当にそこで身動きできなくなりました。私は風が変わったことでそこに吸い込まれてしまいました。」

 

11月12日:私は悪天候用の巻き取り型スピンネーカーを揚げました。(それは柔軟なケーブルの周りに巻いてあることを意味しています。)まさに揚げ終わるちょっと前に、セールが広がり始めました。ロープが切れ水中にセールガ落ちる棄権をさけるために、私は急いで掲揚を続けました。

 

しかしながら、セールが頂点に達するその時に、底辺が大混乱に陥りました。なぜならセールが広がるのが早すぎたため、巻き取り機が停止しセール自身が、セールの端の力によって、タックライン(訳者注:方向を変える時に使うロープ)、ファーリングライン(巻き取り機を操作するロープ)、そしてシート類(作業ロープ)の集まっている所に巻きついて、それらをきつく束ねて固い棒状になってしまったからです。それは私にセールの安全を守る他のラインを装着するため無停止の状態で4時間を要しました。

 

11月15日:外洋レースは実際に物事を行いながら学ぶ大変にいいコースです。物事を整理して、学び、そして様々な方法を試すために十分な時間があります。それは外洋レースの優れたところの一つです。そこで私は異なったセールの組み合わせで、異なったやり方でトリムを取ることを試しました。艇は向かい風、追い風で良い状態でしたが、リーチング(保針)には良くありませんでした。

 

11月16日:水の整流システムから水漏れ。

 

11月18日:無風地帯を抜けた。「無風地帯の中は問題ありませんでした。全く停止しませんでした。最も強いスコールはおよそ30ノットでした。」

 

11月22日:この船団の中の一部の4人の新人たちは彼らの周りの経験のある競争相手達に圧力をかけていました。フランス人、Fabrice Amedeo、Stephane Le Diraison、日本人、白石康次郎、ニュージーランド人、ConradColmanはわずかの距離しか離れていませんでした。

 

11月25日:いくつかのロープを交換するためにマストに登りました。「マストの上で作業をするためにマストに登るのは最悪の仕事です。本当に恐ろしいことです。本当に危険です。100フィートまたは30m空中に上がると艇の少しの動き、または小さな波でもマストの先端を非常に大きな振幅で揺らします。そして本当に危ないのはトップに登るのに助けてくれる人は誰もいないということです。戻ってきた時、いつも私はトップでのひどい揺れで、ひどくあざができていました。」

 

Nandor Faとの決闘。

 

11月28日:ポルト・アレグレ(ブラジル)の緯度で時に6ノットに落ちる軽風の中でもがきました。「私は高気圧にあきあきしています。」

 

12月2日:Conradは彼の33歳の誕生日を祝いました。「私はバンディグローブの中で自分の誕生日を祝っています。また、サラダを食べながら祝っています。それはモヤシから出来ています。そして私は船上で新鮮なサラダを食べることに興奮しています。妻はまた特製の誕生日ボックスを作ってくれていました。それはすごくまずい、すこし固い水分のない宇宙飛行士用のアイスクリームを詰め込んだものでした。

 

12月4日:横倒しに。「電気迂回回路がソーラー充電制御装置の一つを破壊しました。そしてそれはその隣の電気ケーブルを傷つけました。それは電気機器を、そしてそれから操縦装置を止めました。そうして私は操縦できなくなり、艇のコントロールを失いました。すぐにそこで艇はその舷側をみせ、ジェネカーは水中へ浸かりました。」

 

「私は海図台の後ろから黒煙と黄色の炎が立ちのぼるのを見ました。ソーラ充電制御装置の一つは燃えていました。そして内部の電気システムが故障する段階に入りました。炎が消えた後、私は自動操舵システムからあるビービーなる音が聞こえました。そして私の世界はめちゃくちゃになりました。艇は風で進路を変え、そして、溶けたプラスチックのことで手いっぱいの私を内部に残したまま、激しい回頭をしました。」

 

12月8日:「私は死の列に並んでいるのではないかと少し思いました。そして私の友人の競争相手はすでに最後の晩餐を取ったのではないかと思いました。Kitoの救助を聞いた時、そして、連続した3回目で(Kitoは遭難3回目)、彼は自分の力でレ・サーブルへ戻ることができなかったことを考えると、感情的になり、かつそれは衝撃的なことでした。」

 

流線型の触角(ラム)からのオイル漏れ、電気系統の故障、損傷したソレント(訳者注:フォアステイの一種。大きな帆を張る外側のフォアステイの内側にセットする小型の帆のためのフォアステイ)の修理のために再びマストに登らなければなりませんでした。

 

12月16日:太平洋の嵐。2段縮帆、そして小さいジブ。それでもなお到達最高スピードは27ノット。

 

12月18日:リーウイン岬の経度を通過。「ニュージーランド人として私はオーストラリアを通過する過度の儀式は行えませんでした。私はいつもリーウイン岬は三つの岬の中では小さい岬だと考えています。喜望峰やホーン岬とは違います。」

 

1月2日:60ノットの強風。スタンディングㇼグ(帆柱を支える艤装、この場合、フォアステイのピン)が損傷を受けました。修理をするために静かな天候を待たなければなりません。3日かかる仕事です。40ノットの風の中でそれをした後は疲れ切りました。そして、それからホーン岬へ向かうことを続けました。嵐の中で艇がひっくり返りました。そして他のセールを流してしまいました。「物理的に私は打ち砕かれました。そして感情的にはすごく失望しました。私は全てのことを正しく行っていたように感じていました。私はその時大変控えめに帆走していました。私は自分の技術的な失敗をがっかりしていました。」

 

1月12日:Colmanはホーン岬を0416UTC、出発から66日と16時間14分、10位で回りました。

 

1月21日:天候の都合と複数のセールを欠いているため、南アメリカの沿岸をゆっくりと戻りながら上って行きました。

 

1月30日:0845UTC、Colmanは北半球に戻りました。

 

1月31日:うまく無風地帯を抜けました。

 

2月5日:最後の直線航路を楽しみにしています。北大西洋に戻って行く航路を見つけるのは容易ではありません。「私のレ・サーブル・ド・オロヌへフィニッシュする航路はめちゃくちゃなように見えます。選択肢がありすぎます。本当に難しいと思うこともできるし、もっと難しいとも思えます。私は40ノットの向かい風の中でも行けるし、50ノットの追い風の中でも行けます。選択は容易ではありません。」

 

2月7日:マディーラを過ぎてヨーロッパの海に戻りました。

 

2月10日:2200UTC、ポルトガルの沿岸から300マイル沖でマストが折れました。損傷を調査した後、より穏やかな状態になるまで待ちました。応急措置として使えるようにブームを修理しました。

 

2月24日:16位になりました。

 

引用

 

バンディグローブは私が今までにイメージしていたもの以上です。10年続いた航海の総括として、これはイメージしていたもの以上に厳しいものだったということです。戦う中で力が沸いてくる信じがたい可能性。私のやり方を投げ飛ばして、すべてのこれらの挑戦に向かい合うこと。これは単独レースですがチームの努力であること。ここにいるすべての人々が私を支えてくれていることに私は乗っかっています。それらが私をフィニッシュに導いてくれました。この瞬間は言葉に表せません。もし言葉に表すとすれば涙が湧き出るでしょう。私はこんなに多くの人々が私のためにいてくれることが信じられません。過去10年以上、私は心配でした。私はまさかスタートラインに立てるだろうとは思いませんでした。しかし、厳しい努力と幸運によりこの旅は私に取って現実となりました。私はこのことを今日ここにいらっしゃるすべての方々と共有するとともに、それぞれの人生で挑戦に直面している方々と共有したいと思います。何事もできます。しかし、周りにチームが必要です。すべての日々、私は戦わなければなりませんでした。応急措置は私がすべての日々に行わなければならないことのまさに象徴です。

 

たくさんの問題の後なので、これは素晴らしいことです!シャンパンを開けましょう!私はついにここにたどり着いたと思います。この水路で多くの観衆に驚きました。マストが倒れた時、私はあきらめようとは全く思いませんでした。支援してくれている皆さんからの大変多くの力を感じました。一緒にやり遂げました。それは単独航海のレースを支えてくれたとともに、私たちはチームとして団結して成し遂げることができたのです。私は自分が何を求めていたのかわかりました。多くの挑戦、私はこれらの挑戦に立ち向かう強さを作り上げました。

私にどうか一部分を担うことをさせてください。

 

その瞬間、私はマストが倒れた時、可能性があるだろうとは思えませんでした。私はコース役員を呼び出しましたが支援を頼みたいとは思いませんでした。私はこのレースを続けられるように、一歩一歩着実に頂点を目指しました。スタートした時の人物はそのようなことをする能力は持ち合わせませんでした。私は自分自身の中にそれぞれの時に強さを見出さなければなりませんでした。私は変わりました。これは誰にも言えることです。なにものも私を打ちのめすことはできません。私たちは私の艇と一緒の4年間に戻ります。私は全てを誇りに思っています。私はマストを折ったことを恥じてはいません。

 

翻訳:Watson Courtier 

as of May 25 2017.