Didac Costa14位

Didac Costa takes 14th place.



English Original

Didac Costaは14位になりました。

2月23日木曜日 2017年

 

スペイン人単独外洋レーサー、Didac Costaは単独無寄港世界一周レース、バンディグローブのフィニッシュラインを、この木曜日の朝、7時52分UTCに越えました。 36歳のカタロニア出身の消防士、プロ顔負けのキャリアを積んだアマチュアレーサーは、スペイン人の単独レーサーの草分け、故Jose Luis de Ugarteの薫陶を受けて子供時代からの夢を実現しました。Jose は1992-93年のバンディグローブを134日と5時間で今までにフィニッシュした唯一のスペイン人セーラーです。Didacのレース時間は、レ・サーブル・ド・オロヌからレ・サーブル・ド・オロヌの24,499マイルで108日と19時間50分45秒でした。彼は実際は27,964マイルを平均速度10.71ノットで帆走しました。

 

粘り強い、頑張り屋のCostaは11月6日にスタートした29人のスキッパー達の中で最も少ない予算で成し遂げました。バルセロナを本拠地とするCostaは3年の間を開けて、同じ2000年にEllen MacArthurのKingfisher号として建造されたIMOCA60艇で、彼の2回目の世界一周レースに参加しました。Aleix Gelabartと一緒に、彼は2015年4月にバルセロナ・ワールドレースに4位でフィニッシュしました。

彼はレ・サーブル・ド・オロヌへ凱旋し、レースが始まってわずか90分後に彼がスタートした港に修理をするために戻らざるを得なくなった時、彼に寄り添い、彼を助けたレ・サーブル・ド・オロヌの消防士達からはもちろん、その他の多くの人々から熱烈な歓迎を受けました。

 

Didac Costaはレーススタート後わずか90分で、突然、甚大な浸水に見舞われました。そしてすぐにレ・サーブル・ド・オロヌへ戻らなくてはならなくなりました。主要な電力を供給するために彼が頼るエンジンが海水で危険にさらされました。そしてバッテリーと結線葉水に浸かったため、交換したばかりの電気系統がほとんど損傷を受けました。Costaがレ・サーブル・ド・オロヌへ戻った時、彼がそのために将来の個人的な債務保証をせざるを得なかったレースを再スタートできるかどうかは全くわかりませんでした。Costaをレースに再スタートできるようにしたのは、レ・サーブル・ド・オロヌの消防署の協力者たちの団結と率先力によって可能になった、というのが真実です。

 

このスペイン人のスキッパーのレースには多くの感動的な場面がありました。スタートまで1か月もない時に、バルセロナの母港で彼の艇は雷に打たれました。

彼は彼のレースにレ・サーブル・ド・オロヌの地方のエンジニア、Joes Aberが介在することを認めています。Joseは彼と彼のチームに海水による損傷への対策として、彼のエンジンを直ちに分解して掃除することの緊急性を警告しました。彼が再びスタートすることができたのはスタート日の後の金曜日でした。彼は前のスキッパーと700マイル以上離れて再スタートしました。彼は競争相手がいない単独で世界一周を競わなければならないかもしれないという心配を持ってスタートしました。しかしインド洋で彼はフランス人スキッパーRomain Attanasioと一緒になり、そして続いて起こった彼らの決闘はこの第8回レースでの最も長く、激しい戦いの一つでした。それはCostaが、彼の物理的な限界まで追求し、彼を追いこんだ闘争的な直感によるものでした。最後には彼はAttanasioをおよそ24時間先行しフィニッシュしました。

 

Costaは火のような闘魂と広い心を持った屈強なカタロニア人の格闘家で、特筆すべき性格を持っています。2015年、90日間のバルセロナ・ワールドレースが終わったわずか48時間後、彼はすぐにレースの勝者Jean Le Camと一緒に優勝艇をバルセロナからブルターニュに回送する手助けに乗り出しました。また、このレースの後半の週、彼がRich Wilsonを300マイル以内に捉えた時、彼はレース役員に、ベテランのアメリカ人Rich Wilsonがあまりにいい人物なので、彼を追いこすことができるかどうかわからないと告白しました。

 

スタート、号砲、そして陣形を盛り上げたすべての感動とドラマは水が引くように収まり始めました。Costaは、艇は大変にいい状態だと思い、ゆっくりとリズムを掴み始めていました。その時、彼が大きな問題を抱えているということが明らかになってきていました。彼が足元を見た時、水が内部に流れ込んでいました。そしてそれはすでにエンジンのレベル以上になっていました。緊張と興奮の中で、彼はバラスト水の吸出し処理をすることを忘れていました。そして、バラストパイプがバルブのところで吹き飛んでいました。バッテリーとエンジンが水に浸かってしまいました。瞬時に彼は彼がスタートラインを切るために懸命に戦ったレースのわずか90分で苦痛のUターンをするしか他に策がないことを理解しました。

Costaは18:00にオロヌ港のポンツーンに戻ってきました。彼の小さな陸上のチームと同じく、他の多くのチームのメンバーがそこに援助するために集まっていました。スタート前にCostaに力強い資金支援をした消防士たち、レ・サーブル・ド・オロヌの消防士たちも同様でした。

 

消防士たちの素早い判断で彼らは機械の天才、エンジニアリングの魔術師を呼びました。彼は彼らに「もし、我々がエンジンをすぐに直さなければ、そしてそれを3時間以内にしなければ、レースは永遠に終わってしまう。」彼は作業をすぐに始めました。そして、誇張でもなんでもなく、Costaのレースを守り抜きました。「彼と彼の迅速な助言と彼の介入がなければ、Didacは二度とドックを離れることはできなかっただろう。」プロジェクトマネージャーのJordi Grisoは回想します。

Costaのスペインチームが見せた団結は驚くべきものだっただけでなく、このレースのこの大会の気風を余すところなく示しました。仕事を一緒にした他のチームの人々だけではなく、レ・サーブル・ド・オロヌの消防士達は、ある時は単なる励ましから、,コーヒーそしてピザの提供まですべてに参加しました。同じエンジニアリングの指導者は充電システムを現行の発電機よりもエンジンから離した2重の交流発電機に変更することを考案しました。

スタートから3日後、艇は再び準備が整いました。しかし、いまだにビスケー湾は40ノットの風が吹いていて、不安を抱えたなCostaはさらに24時間出発を延ばさなればなりませんでした。

 

11月10日金曜日11時40分UTCに彼が最終的に再びドックを離れた時、彼は先頭から1,134マイル、最も近い競争相手Sebastien Destremauから770マイル遅れていました。しかし、Costaは大西洋を下る全行程で、最初はいいコンディションに恵まれました。事実、彼は一度しか回頭をしませんでした。天気模様がいい状態を続けるのはきわめてマレです。彼は激しく押し進めました。全レースを通して自分しかいないのではないかという彼の最初の心配は根拠がないことが証明されました。それにしても、最初の一週間半の間、Costaは全く位置情報を見ませんでした。彼はできるがぎり早く艇を帆走させる作業に没頭しました。

 

南大西洋で、彼の努力は報われました。12月7日喜望峰の緯度の西850マイルで、彼はDestremauを抜かして22位になりました。2日後、彼はまたRomain Attanasioを抜かしました。このフランス人スキッパーは、名高いフィガロ・クラスの単独レーサーで、彼のFamille Mary-Etamine du Lay号はCostaの2000年に進水したかつてのKingfisher号と同じ船齢で同じスピード能力を持っています。彼は、舵を修理するためケープタウンの東の湾にむけてコースを変えざるを得ませんでした。このことがCostaに抜くことをさせました。インド洋を通して、Didac Costaはいいペースを保ち、彼の艇を激しく押し出し、リーウイン岬の先450マイルでAttanasioに200マイル以上差をつけました。彼の連続24時間の平均スピードは16ノットで、これは2人乗りバルセロナ・ワールドレースでの同一期間中にAleiz Gelabertと一緒に達成した速度に近いものでした。しかし、オーストラリアの南似来た時、Costaの技術的な問題は本当に蝕み始めていました。彼の非常に限られた予算のおかげで、彼は新しいメインセールと新しいG2ジェノアしか買うことができませんでした。一方で彼の他のセール類はバルセロナ・ワールドレースですでに世界を一周していました。大西洋を下ると地位の赤道で、文字通り彼が赤道を越えた時、彼の働き手のG1ジェノアが吹き飛びました。残酷な3日間で彼は更に3枚のセールを失いました。ブラスト・リーチャー、J3、そしてフラクショナル0。実際に彼の士気は低気圧の間中沈みました。そして接近し、再びAttanasioに対するレースを争うことが明らかになった時でさえ例外ではなく、Costaのレースは興奮も人を引き付けようともしないことが明らかでした。決闘は、やがて荒れ狂ったオーストラリアの南から太平洋を通過し、ホーン岬を周って、大西洋を上る全行程で、最後の数週間まで、日々そして週を追うごとに二人のスキッパーの士気を高くしてゆきました。このペースは二人を疲れさせました。いつもCostaは、マネジャーのGrisoが何回か言った、Attanasioはフィガロレースで勝つだろうと確信していると言う言葉を信じて、自分は負け犬だと考えていました。「しかし、私は彼に私を追い抜くのは大変厳しいと思わせて苦しませようとしている。」と、Costaは彼の陸上のマネジャーのGrisoに書いています。

 

オーストラリアの南でCostaは失敗の連続で苦しみました。操舵アームのねじが壊れて、彼は水圧アームを交換しなければならなくなりましたが、パイロットソフトウエアが新しいアームを認識しませんでした。そして故障しました。彼は極端に疲れてやる気を失いました。「私はとにかく眠い、すごく疲れた。」彼はGrisoに伝えました。Attanasioは100マイル先行しました。ニュージーランドの下でCostaのメインセールが裂けて割れて、彼は48時間メインセール無しで帆走しました。Attanasioが何回も追い抜きました。ホーン岬で1月20日、Attanasioは100マイル先行していました。しかし、南アメリカの沿岸で決闘は互角になりました。ウルグアイの緯度のある地点で彼らは半マイルも離れていませんでした。そしてお互いに撮影しVHFで定期的に話しました。しかし、フランス人スキッパーもまたダガ―ボードを失うという、さらに機械的な失敗で苦しみました。しかし、究極的にレースの優勝者Armel Le Cleac'hがAlex Thomsonとの決闘で示したように、優位性は常にリーダーにありました。Costaはカナリア諸島でAttanasioを引き離すことができました。

その結果、最後の数日で400マイル以上先行しました。しかし、彼らの決闘はこの第8回バンディグローブの目を見張る物語の一つでしかありません。

 

翻訳:Watson Courtier

as of May 30 2017.