English Original
Vendee Globe
単独、無寄港、援助なし。
Vendee Globe は今でも単独無寄港世界一周をするレースです。このイベントはゴールデングローブの精神で設立されました。それは1968年に3つの岬、喜望峰(アフリカ)、リーウイン岬(オーストラリア)、ホーン岬(南アメリカ)、を経由する最初の単独無寄港世界一周レースでした。9人のパイオニアの内、1968年に完走した人物は、海上での313日を経て1969年4月6日にファルマス(イギリス)に戻ってきた英国のセーラー、ロビン・ノックスジョンストンだけでした。サー・ロビン・ノックスジョンストンはかくのごとく、単独無寄港世界一周をした最初のセーラーになりました。
20年後、寄港しながらの単独世界一周レースのBOCチャレンジで2回入賞した、フランス人のセーラー、フィリップ ・ジャントが新しい形の単独世界一周レースのアイディアを思いつきました。無寄港のレースです。こうしてグローブチャレンジが生まれ、そして数回のレースの後、これが Vendee Globe になりました。1989年11月26日、3か月以上も続くであろうこの初めてのレースに13人のセーラー達が出発しました。ただ7人のみがレ・サブール・ドオロヌ港に戻ってきました。
それ以降、世間がそれを海のエヴェレストと呼ぶ、前回までの7回のレースで138人のセーラーがバンデグローブのスタートラインに立ちましたが、ただ71人だけがフィニッシュをすることができました。この数字だけでも、この世界的なイベントの難しさがわかります。そこでセーラー達は凍るように冷たい気候、山のような大波そして南氷洋の鉛のようにどんよりした空に遭遇します。バンデグローブは海の果てまですべてそのような航海が続きます。そしてセーラー達の気持ちを深く落ち込ませます。レースを勝ち取った数名の偉大な名前は、Titouan Lamazou, Alain Gautier, Christophe Augin, Vincent Riou, Francois Gabart、そして唯一人、Michel Desjoyeaux は2001年と2009年の2回入賞しています。レース記録保持者はFrancois Gabartで78日を記録しています。
第8回バンデグローブは2016年11月6日の日曜日にレ・サーブル・ドオロヌ港から出発します。
航路。
3岬を回って世界一周
バンデグローブの航路は自然への挑戦とこの重要なイベントの後ろに隠された思想を端的に表しています。西から東に喜望峰、リーウイン岬、ホーン岬を経由して世界を回ります。大西洋を長距離下り、最初にインド洋から南氷洋を横切る危険な航海と、世界で最も大きな太平洋を横切ります。そして、最終的に大西洋をレ・サ-ブル・ドオロヌを目指して戻ってきます。それは海のエヴェレストのスタートとフィニッシュの地点です。世界一周レースコースの各区間を見てみましょう。
ビスケイ湾の罠。
フィニステレ岬とレ・サーブル・ドオロヌの間の南西に吹く嵐に注意しなければなりません。どの外洋レーサーもビスケイ湾は難しいところだという評価を下しています。大陸棚の浅瀬とカンタベリー山脈から吹き降ろす強い風の間で大西洋に出る航路を外れることはセーラー達にとって極めてきついことになります。一方で、北風のケースではそれはスペインの西の端を目指してすばやく下れることを意味します。そうして、マディーラ島とカナリヤ諸島を通過します。やがて、できるだけ早く貿易風をつかまえて、無風地帯に入る進路になるカーボベルデ諸島をさける進路をとります。スピードに恵まれれば、時には数時間のうちに数百マイルを失ったり得たりすることを意味する戦術的な操船を選ぶ余裕がセーリングに出ます。
無風地帯からセントヘレナ島へ、操船戦略。
北半球と南半球の境で無風地帯としてよく知られている熱帯収束帯はヨットマン達にとって悪夢です。不安定な風、激しい雷雨、時折来る豪雨、無風地帯を脱出するのは宝くじに当たるようなほとんどまれなものになります。別の言葉で言えば、バンデグローブのセーラー達はここにはまる前に次のことに多くの時間を割いてきました。気象図を調べ、それぞれの分野の詳細を分析してきました。一旦、彼らが赤道を通過すれば、東へ転舵しインド洋に向かって追い風をつかまえる前に、南緯25度、西経15度のセントヘレナハイ(ほぼ常駐の高気圧、セーリングに影響を及ぼす)の周辺の航路を見つけなければならないという解決しなければならない問題に遭遇します。セントヘレナ島はギニア湾の真ん中にあります。しかしその名前を生んだハイ(高気圧)はブラジルとアルゼンチンの沿岸に正確に渡るための微風を生み出すこともします。
インド洋、未知の地帯。
これは、バンデグローブ最初の入賞者、Titouan Lamazou が喜望峰とオーストラリアの南東へ向かうタスマニアとの間での大変な荒々しさにこのニックネームを付けました。インド洋を渡りながらヨットマン達は別の言葉も思い出します。薄明かり、危険な海、荒れ狂う風、寒さ、湿気の多い気候、わずか数日でバンデグローブのセーラー達は彼ら自身が完全に孤独だということを感じます。船首の先には彼らが最も南寄りのルート、それは同時に氷海をさける最も南の限界で妥協しなければならない数千マイルがあります。航路変更は気持ちを動揺させ、そして彼らの気持ちの上に重くのしかかります。艇に重すぎる負担をかけずに素早くどのように帆走するのかわかっていても、もう一度正しい選択肢を取っているだろうかと自問します。そして、みんなどのようにして生き残るのかを理解しています。
太平洋、帰り道に向かう。
ホーン岬に到達するためには平均しておよそ20日間かかります。大気が徐々に変わります。セーラー達はうねりがより規則正しく、より長くなり、そして海はより澄んでくると言います。一旦、彼らが日付変更線を通過すると、復路の旅が始まります。しかしながら、ホーン岬を回る航海は同じく待ち構えている危険との共存です。まず最初は氷山の存在です。かなり北の緯度でも近づいてきます。これはレーダー上に大きな氷山を見つけることのできるヨットマンにとってさえも緊張する見張りをすることを意味しています。流氷や小さな氷山の位置を特定することはできません。それらは時として海面に1メートルよりも小さく浮いています。しかし、それらは重さが30トンから50トンあります。常に衝突の危険があります。そしてデッキで危険を察知しようと時間を費やすことはたまった疲れを増幅させます。ホーン岬を回ることは帰り道になったことを意味します。
南大西洋、気のなえてしまいそうな上り。
私たちは数多くのボートが南大西洋でリタイア―することに直面することを忘れてはなりません。船は用心してガタが来始める数週間を何とか維持して多くをすり抜けます。しかしそれ以上に、南大西洋は彼らにそれでリタイアしなければならないと思わせる意地悪なショックを与えます。パンパロス、アルゼンチンの沿岸に吹き付ける強風は予期できない嵐です。強風は帆走をいつも困難にします。そして、普通向い風での帆走はボートと人を衰弱させます。やがて、もし彼らが統計よりも西寄りに寄っていたら無風地帯につかまります!
北大西洋、早い区間。
徐々に、バンデグローブのシングルハンドのヨットマン達は寒さの中に戻っていきます。防寒具を付け、彼らはフィニッシュに向けカウントを開始します。彼らはどのようにしてレ・サブール・ドオロヌへ戻るのか決断しなければなりません。常に彼らはフランスの西海岸の港に向けて直接帆走するための西方向からの風をつかまえなくてはなりません。彼らは貨物船や、大陸棚の端で操業するトロール漁船と遭遇することで、すこしづつ文化の香りを感じはじめます。
単独航海。
一人の男性または女性、世界とボート、それは大変明確です。これは単独レースです。そして世界を回る間中、スキッパー以外誰もボートに乗ることを許されません。もちろん特記しておかなければならないのは、もし競争相手を救助するようなことが発生した時は別ということです。例えば、第3回目のPete Goss がRaphael Dinelliを救助するために到着しニュージーランドで降ろした時や、さらに2009年にVincent Riouが喜望峰の近くで転覆したJean Le Camを救った時などです。
無寄港。
唯一挑戦者たちに許されているピットインは、スタートしてから10日以内にレ・サーブル・ドオロヌ港へ戻ることだけです。これは実際Michel Desjoyeauxがしました。彼はスタートから40時間後に復帰しました。しかし、最後はレースに入賞しました。スキッパーたちは例えば狭い水路にアンカリングして停泊することを許されています。しかし、一番高い潮位マークが示す高さを超えた浜に揚がることは許されていません。Yves Parlier は大変に有名になった2000年のレースで修理のためにこの特権を使いました。多くの他のレーサー達が浜に揚がることなくアンカーを降ろしています。他の例としては、2008-2009にMarc Guillemotがマストに昇りました。
援助なし。
バンデグローブでは、セーラーはまったく一人です。再度述べると、許される唯一の援助はセーラがスタート直後にレ・サーブル・ドオロヌ港に引き返した時だけです。それは、時間をロスすることを意味していますが。この例外を除いて、だれもが世界一周をしている間は自分ができることだけに頼らなければなりません。荷物を送ることは厳しく禁止されています。セーラー達はともすれば起き得るダメージによる修理をする彼ら自身のやり方を周辺に見つけておかなくてはなりません。そして自分がけがや病気になった時、自分自身で手当てしなければなりません。この特別なケースとして、彼らにはレース医師、Jean Yves Chauve からの助言を求める権利があります。
参考のために、技術的な助言を受けるために彼らが他のボートに行ったりまたは第三者を乗船させる行為は厳しく禁止されています。セーラー達は設計者や彼らの技術チームからのどのようにボートを直せば一番いいかの情報を受け、助言を求めてもかまいません。しかしこれは彼らが自分でできる最善を尽くして航海を続けながら、彼らが自分自身でボートの上で、自分で直すことを意味しています。そうです、バンデグローブは過酷なレースなのです。
翻訳:Translated by Watson Courtier.
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Translated contente is not allowed to use without a permission.
(as of July 9th 2016.)
ボート。
バンデグローブのボートは全て長さが18.28m(60フィート)幅が4.5m(14.75フィート)です。多くのセールを積んで、彼女たちは一人で操船される世界で最も強力な単胴型(モノハル)ヨットです。彼女たちは追風の場合、30ノットを超えることができます。このクラスの規則は1991年にできた、IMOCAクラス(International Monohull Open Class Association.)で決められています。そして、ISAF (International Sailing Federation.)で認証されています。この規則はごく最近更改されました。彼女たちは今標準的なキール、伝統的なマストかまたはウイングマスト(整流されたマスト、マストそのものが動きセール補助の役目をする。外見上の特徴はは支持棒が漁船のように左右に出ている。)かの2つの間での選択、数々の付属品そして規制されたバラストタンクをつけることを強制されています。残りはデザイナーにまかされます。(今回の白石艇はフィックスマスト、普通のマスト)
今年のビッグニュースは最も新しい世代のボートがフォイルを装着することです。この付属品はボートの船体を持ち上げます。これは抵抗を減らし性能を上げます。2016-2017 バンデグローブはこれらの新しい船の最初の戦いの場になるでしょう。しかし、今までの世代のボートは極めてよく調整されていて、さしあたりより信頼がおけます。意味するところは、彼女たちはまた良い選択肢ということです。事実、前回のレース以降すべての主なレースを従来のボートが制しています。
トロフィ。
高さ24インチ(60㎝)周囲12インチ(30㎝)重さ10kg。感動を与えるバンデグローブのトロフィーはフィリップ・マチュレによってデザインされたブロンズに銀メッキがほどこされた芸術品です。それのすべてが世界一周航海を表しています。それはエレガントなセーリングボートが地球によって囲まれています。そしてそれはウインチ(シート巻き器)のような形をした台座に載っています。アトリエ デュ プリスム(the Ateliers du Prisme) でデザインされ、サルトのマチュレ製造所で制作されました。それは単独航海をするセーラー達が他の誰よりも欲しいトロフィーです。あと数か月、トロフィは優勝記録保持者、Francois Gabart の手元にあります。誰が次の優勝者としてそれを頭上に持ち上げるでしょうか?
Atelier du Prisme
翻訳:Watson Courtier
歴史
1989年から1990年:偉大なレースが生まれました。
レ・サーブル・ドオロヌ、1989年11月26日、全員、不安と興奮の微妙に入り混じった、ある強烈な感情に襲われている13人のスキッパー達が彼らのボートの上で忙しく動き回っていました。途中寄港することが許されない世界一周のシングルハンドレースに出る前の最終チェックです。この偉大な海の大冒険に参加している常連の競争者たち、または、外国人と前途有望な若者たちを見て、「未知の世界へ行く船に乗った気違いじみたヨットマン達の恐ろしい数」と言ったのはティトアン・ラマズで、彼は彼らをこのように表現しました。ラマズは開拓者たちに開放されたこの最初の外洋レースで記録を残しました。ベルンから来た、ある時は画家、ある時は船乗りのこの「エキュレイユ・ダキテーヌⅡ」のスキッパーは、24,000マイルを109日かけて、最終的に優勝者としてフィニッシュラインを超えました。レースが始まって3日目から、フィニストレ岬を過ぎて彼は先行しました。彼の優勝への決意は決して脳裏から離れませんでした。大海原はフィリップ・ジャントのような彼のライバルたちを一人また一人と失格させてしまうか、行足を遅くさせてしまいました。グースネック(ブーム:帆を張る水平棒の付け根にある器具)の破損により、最初のバンデグローブで出遅れたジャントは、順位を譲りました。彼はやがて無風帯の気象の中で身動きが取れなくなりました。
最初の優勝者の後に続いて、レ・サーブル・ドオロヌ港に戻ってきたのは、ロイック・ペロンのラダポク3世でした。ラ・ボール出身で、多胴艇に優れた才能を持つこのヨットマンはフィリップ・プウポンを救助して、模範となる世界一周の旅を30時間遅れで終了しました。彼が救ったフィリップのケッチ、「フリューリー・ミション10世」は横倒しになっていました。(次のビデオで救助の映像をご覧いただけます。著作者により他のサイトでの視聴は制限されていますのでYou Tubeでご覧ください。Please view a video with You Tube according to the reason of an author's consent. Click on You Tube sign on a Video.)
「海の男フィリップ」を救助することによる付加価値は、先頭の「ハーゼルナッツを噛んでいる奴」Titouan Lamazou とその「Ecureuil(Squirrel) d'AquitaineⅡ」に勝つ計画が挫折しても、それはロイックにとって大したことでありませんでした。先頭集団が大西洋を上り始めるぎりぎりまで、ロイックは先行者のすぐ後を追いかけることに固執し、1位の Titouan Lamazouを最後の最後までおびやかしました。
三番目は、Harleが設計した「36.15 MAT」の操船者、Jean-Luc Vanden Heedeです。質実剛健な風貌のこの老練な水夫の予算にこのモノハル艇は合致しました。彼は60フィート艇の中でみんなからの崇拝を勝ち取りました。これら極限の低い緯度の中で、タフな我慢強い男たちは氷山に囲まれた氷海を抜ける航路を切り開かなければなりません。ロリアンの数学と物理の先生で、ヨットの素人だったこのヨットマンはこの3つの岬を回るレースでまったく普通では考えられないことを成し遂げました。このラベル「VDH」は有名になりました。
2か月後、「Cacharel」に乗った、Jean-Francois Costeが彼の初めてのバンデグローブを完走しました。彼に取ってこれは勝利でした。彼は13人の挑戦者の中で最後の7番目に戻ってきた男になりました。残りの6人は不運に見舞われたか、ビスケイ湾から南の深い海に向かう間にある悪夢の海につかまってしまいました。しかし、この最初の偉大なレースにとって、この年の海は単独航海の開拓者達に対して比較的親切でした。
「スタートの朝、私たち13人は本当は私たちがどこに行こうとしているのかわからなかった。彼らの中には優勝する者もおり、幾人かのランナーは完走し、幾人かの幸運に恵まれる人と不運に見舞われるかもしれない人もいるだろうが、幾人かは最後にフィニッシュしなければならない。私たちはみんなわかっていた、そして、みんなが自分の夢を実現するために自分のできる最大限のことを行い、あるものはそれを次の機会に託すことになるだろう。
誰もがあえて言わないことは私たち誰もが知らなくていいということだ。
しかし、海は人を選ばない。それは単に機会を与えだけだ。
だから、すべてのことをうまい具合に回し、
いいやり方をすれば幸運がもたらされる。」
Denoel著「バンデグローブ」の序文からJean-Francois Costeの言葉の抜粋
最終順位
1.Titouan Lamazou(Fra,Ecureuil d'Aquitaine Ⅱ)
2.Loick Peyron (Fra,Lada Poch)
3.Jean-Luc Van den Heede (Fra,36.15 MET)
4.Philippe Jeantot (Fra, Credit Agricole IV)
5.Pierre Follenfant (Fra, TBS-Charente Maritime)
6.Alain Gautier (Fra, Generali Concorde)
7.Jean-Francois Coste (Fra, Cacharel)
失格
Patrice Carpentier (Fra, Le Nouvel Observateur)
Mike Plant (Fra, E.U,Duracell)
Guy Bernardin(Fra, O-Kay)
棄権
Bertie Reed (Fra, AFS, Grinaker)
Jean-Yves Terlain (Fra, UAP)
Philippe Poupon (Fra, Fleury Michon X)
1992年から1993年:そこでは初めて悲劇が起こりました。
Alain Gautier:「単独で航海するヨットマンの人生は他人と問題と緊張は分かち合うが、しかし、大変な美しさを残す感動と満足感は分かち合わない。バンデグローブは私に対して人生一般と特に自分自身の人生について、最もよく教えてくれた確たるレースだった。」
最初の大会に続いて、バンデグローブは多くのメディアが取り上げて再び開催された。トップのシングルハンドのヨットマン達にとって母港になったレ・サーブル・ドオロヌ港では、第2回目に参加する熱意にあふれたヨットマン達、Alain Gautier, Loick Peyron, Philippe Poupon, そして Jean-Luc Van den Heede がレース中毒になっていました。彼らと並んで、幾人かの新しい挑戦者たち、特にYves ParlierとBertrand de Brocは、BOCチャレンジ以来の幾人かのベテランを含む大物外国人セーラー達の参戦を見て、あふれんばかりの感激でこのレースに敬意を表していました。陸上では、人気のあるイベントが催されました。Philippe Jeantotは彼の防水着を、この信じがたい偉大な冒険と過激なスポーツのはざまにある夢のイベントの役員用上着に着替えることを決めました。地球周遊レースはスタートすることができました。しかし不幸なことに、一人のアメリカ人が参加に失敗しました。2回目の航海に参加するためにやってきた、Maik Plantはレ・サーブル・ドオロヌへ向かっている途中で、海に消えました。彼の転覆した「コヨーテ」の船体は、14名の向こう見ずなスキッパー達が海に挑む2回目のレースがスタートした日に発見されました。悪い兆しなのでしょうか?
ビスケー湾の並外れた大荒れの中で戦う最初の数マイルはセーラー達に情け容赦ありませんでした。多くがバンディ―レースの中で唯一ルールで許されていた修理寄港をするために港に戻らざるを得ませんでした。Loick Peyronは再び海に戻れませんでした。彼のモノハル艇はいたるところで漏していました。Yves Parlierはマストを折ってしまい港に戻りました。そして彼はレースに再び復帰するまで10日間の遅れに耐えなければなりませんでした。しかし、最も悪いことはスタートの号砲が鳴ってから4日後におきました。イギリスのセーラー Nigel Burgess がフィニストレ岬でおぼれ死んでいるのが発見されました。おそらく船体がたたかれた後、落水したものでしょう。
この海の災難の長いリストの中で、唯一2人の挑戦者が物事を乗り切り脱出に成功しました。その2人、Alain GautierとBertrand de Brocは先行チームとして彼らが大西洋を下るまで接戦を争いました。前者は彼のよく整備された「Bagages Superior」号によって、彼の真新しい、そして初めてFinot-Conqと細長く合成写真で大書されたレース艇によって最終的には先頭に立ちました。後者の、14人の中で少し難しい事情を持った、De Brocは、レースドクター、Jean-Yves Chauve によって遠隔地から処方された診断に基づき、自分で自分の舌を縫いました。
しかし、彼はトラブルによって、ニュージーランドに向かわなければならなくなり、レースを継続することができなくなりました。不幸の終わりからは程遠かったのです。彼のボートの設計者は彼に、彼の艇「Groupe LG」(最初のバンデグローブでの優勝艇)のキールは深刻な崩壊の危険性を持っているということを警告しました。彼は完全に士気を砕かれて、あきらめざるを得なくなりました。こうしてAlain Gautier は単独でトップを続けることになりました。彼はホーン岬をPhilippe Pouponに36時間の差を付けて回りました。後者はマストをゴールの数日前に失ってしまいました、そしてJean-Luc Van Den Heedeに2位の座を明け渡してしまいました。わずか半数のシングルハンドレースサー達だけが成功裏に、しかし厳しくそして妥協することなく、世界を巡る耐久レースの旅を完遂しました。
最終順位
1.Alain Gautier (Fra, Bagages Superior)
2.Jean-Luc Van Den Heede (Fra, Groupe Sofap-Helvim)
3.Philippe Poupon (Fra, Fleury-Michon X)
4.Yves Parlier (Fra, Cacolac d' Aquitaine)
5.Nandor Fa (Hon, K&H Bankque Matav)
6.Jose de Ugarte (Esp, Euskadi Europ 93 BBK)
7.Jean-Yves Hasselin (Fra, PRB/Solo Nantes)
失格
Bernard Gallay (C-H, Vuarnet Watches)
棄権
Vittorio mallingri (Ita, Evelast/Neil Pryde Sails)
Bertrand de Broc (Fra, Groupe LG)
Alan Wynne-Thomas (G.B, Cardiff Discovery)
Loick Peyron (Fra, Fujicolor Ⅲ)
Thierry Arnaud (Fra, Maitre Coq/Le Monde de l'Informatique)
判定不能
Nigel Burgress (G.B, Nigel Burgess Yacht Brockers)
1996年から1997年:コントロールを失ったグローブ
Christophe Auguin:「人はすべての項目に耐えることなくして、バンデグローブから逃れることはできない。陸での普通の生活に戻るには間違いなく数か月かかるだろう。南氷洋の深い海は今回私に考えさせた。この壮大な航海の真の敵はまず最初にこの海そのものだ。」
15名の挑戦者に加えて、大幅な遅れで先行された、「海の暴れ者」Raphael Dinelle によって構成されたチームの第3回目のレース。戦列に並ぶのは期待された面々、2度のBOCチャレンジの優勝者ノルマンディ出身のChristophe Auguin をはじめ、その友人のカナダのケベック出身のGerry Roufs, そして、初のカーボン製回転式のウイングマストを搭載した、未来型60フィートの単胴艇で現れたアキテーヌ出身の Yves Parlier が並びます。Eric Dumont や常連のBertrand de Broc などの挑戦者たちの中に、女性が2名、Isabelle Autissier と Catherine Chabaud がこの名誉ある大会に華を添えました。
11月の大会のスタートに、またもや海は唸り声をあげました。早くも1マイル目で被害を被り最初から冷酷な選択を迫られたハンガリー人のNandor Fa とバスク出身のアマチュア、Didier Munduteguy はこの大冒険の棄権者となりました。直ちに来た道を引き返して数日遅れを取った他の選手たちを引き離して、先頭を進むのは海の戦士4名:Yves Parlier、Isabelle Autissier、Christophe Auguin、Gerry Roufs です。
南へ向けて快走する一団でしたが、棄権者を続出させたコースの猛威は強まっていき、徐々に険しさを増す緯度に近づいてゆきました。インド洋の入口では、Christophe Auguinが他の艇をリードしていましたが、右舷の舵の破損とともに勝利への希望をも打ち砕かれてしまいました。南氷洋の荒々しい海域にひとたび足を踏み入れれば、バンディグローブの典型的な事例が繰り返されるのでした。たった一人のスキッパーを先頭に、はるかに離されたグループが後を追います。
世界の果ての、何もない真ん中で、単独航海のヨットマン達は荒れ狂う風と大波の海とうまく付き合っていかなければなりません。Raphael Dinelli は最初の落水者でした。そしてすぐにイギリス人のセーラーのPeteGoss の50フィート艇に救助されました。その後、わずか数時間ずつ間隔を置いて、Tierry Dubois とイギリス人Tony Bullimore が同じ運命に見舞われました。彼らはオーストラリア救助隊によってこの死の海から救われました。これらの困難な状況はシングルハンドのセーラー達に、広大な海の砂漠を通り抜け、終わりのない自然の力による嵐に立ち向かうための役に立つ考え方を教えてくれました。
Titouan Lamazou が暗黒地帯と呼んだ地域でGerry Roufs がまったく応答しないという事実が明らかになるという、最も悲劇的なニュースがパリの本部を襲いました。彼に続いていていた4艇がこの地域をできるかぎりあちこち探しました。そして秘密のベールは6か月後にめくられました。チリの海岸でFinot-Conq設計の艇の残骸が発見されたのです。最悪の南氷洋は本当にその犠牲者を呑み込みました。
1週間にわたって Marc Thiercelin と Herve Laurent の二人と激しい競争をしていたChristophe Auguin が105日の航海のあと、正々堂々と優勝しました。
6位で最後の完走者になったのはこのきわめて難しいレースに挑戦した初めての女性、Catherine Chabaudでした。このレースはこれを機会に一層の安全性が叫ばれました。
最終的な成績
1.Christophe Auguin (Fra, Geodis)
2.Marc Thiercelin (Fra, Credit Immobilier)
3.Herve Laurent (Fra, Groupe LG-Traitmat)
4.Eric Dumont (Fra, Cafe Legal-Le Gout)
5.Pete Goss (GB, Aqua Quorum)
6.Catherine Chabaud (Fra, Whirlpool-
Europe)
失格
・ Isabelle Autissier (Fra, PRB)
・ Yves Parlier (Fra, Aquitaine Innovations)
棄権
・ Bertrand de Broc (Fra, Votre nom autour du
monde/Pommes Rhone Alpes)
・ Tony Bullimore (G.B, Exide Challenge)
・ Thierry Dubois (Fra, Pour Amnesty)
・ Nandor Fa (Hon, Budapest)
・ Didier Munduteguy (Fra, Club 60e Sud)
・ Raphael Dinelli (Fra, Algimouss)
・ Patrick de Radigues (Bel, Afibel)
行方不明
・ Gerry Roufs (Can, Group LG2)
2000年~2001年:急成長したグローブ
Michel Desjoyeaux:「90日以上のレースコースの上では多くのことを学ぶ。非常に厳しい時がある反面、素晴らしいこともまたある。単独世界一周航海は人生の歴史の中で信じがたい1ページだ。それは人をより成熟させ大局的な見方に導く。」
2000年11月、レ・サーブル・ドロンヌでは、セーラー達や陸でサポートする人たちの間で、彼らの心の中に、前回の単独無寄港世界一周レースの悲惨な記憶が漂っていました。過去4年間のあいだ、最南端の南氷洋ではほとんど同じ勢力で低気圧のエリアが渦巻いていました。ある波は60フィートのオープン設計のボートのブリッジの下までなだれ込んでいました。設計者とセーラーはいい考えを出して、単胴艇を改造したり、安定性を向上させ、そうして、世界中の巨大なうねりに立ち向かう危険を減らす計画を練りなおす必要性に迫られていました。凪の海から荒れ狂う海までの、すべての障害に対してさらに進化した安全性があることが、この種のイベントに参加するための判断基準になります。
2000年のバンディグローブはその歴史の変わり目になりました。それは世界規模のレースになったからです。このことを述べると、例えば、Yves Parlier チームの「Aquitaine Innovations」、Michel Desjoyeaux と彼の「PRB」の組み合わせ、また Roland Jourdan と彼の「Sill Matines La Potagere」、そして英国を代表して特に小さいが粘っこい Ellen Mac Arthur が彼女のKingfisher によって参加したこと、そして偉大な世界一周ヨットマンである Mike Golding と Team Group 4 も付け加えなければなりません。参加者のリストの24名のいろいろな種類のバックグラウンドを持ち、地球のいたるところ(ロシア、スペイン、イタリアなど)からの参加したスキッパーたちに、これらの有名な名前が花を添えました。優勝者は地球を93日間と4時間という信じがたいスピードで回りました。それは Chrisophe Auguin による4年前に打ち立てられた記録を塗り替えました。
南氷洋の深い海で、先頭集団の中でAquitaine 号のヨットマン、Yves Parlier が彼のマストを失うまで一緒に競っていたのは Roland Jourdain でした。また、 Ellen Mac Arthur が最後の大西洋の直線コースで Michael Desjoyeaux から色々なプレッシャーをあびながらも、なんとか走っていました。この単独航海の熟練者で、音楽の名手のシングルハンドレーサーがミスをすることがなかったのは何の不思議もありませんでした。彼の座右の銘は真実を表していました。:「勝つためには、最初ですべてが決まる。」速さと慎重さの正しいバランスを見つけることが、そのレースでの名誉を勝ち取るための彼の調理方法でした、それは南緯50度以下のところでもいかんなく発揮されました。
それとは逆に、港に入るか棄権するしかなくなった、数人の悲劇の人物(Golding, Stamm, Dubois, Chabaud,) を除いて、バンディグローブは再び自身で忍耐するしかないレースであることを見せつけました。
しかし、すべてのボートがその順位がどうであれ、母港に戻ってきた初めてのレースでした。そこに不思議な力があり、それを見ることができました。海は今回なんの犠牲者も出しませんでした。さらに言えば、大変に高い水準で争われた競争であったことで、人間的な側面が海の歴史の中に素晴らしい1ページを作り出し、私たちに幾人かの英雄を見せてくれました。
Yves Parlier は間に合わせのマストを装備して、ロビンソン・クルーソーに変身した地球外生命体ET,または、おそらく極め付きの水夫 "EM(Extraordinary Mariner)" といえる存在でした。そして、 Michel Desjoyeaux の後に続いた、才能があり、心の温かい、小さな Ellen Mac Arthur がいました。無寄港単独世界一周レースは今日のいくつかの素晴らしい外洋レースの一つに上り詰めました。スポーツ、冒険、2001年~2002年版バンディの海の感動は一つのボートも失うことがなかったことです。参加した全艇がよく戻ってきました。そして私たちは次回に希望を託すことができたのです。
最終順位
1.Michel Desjoyeaux (Fra, PRB)
2.Ellen Mac Arthur (G.B, Kingfisher)
3.Roland Jourdain (Fra, Sill Matines La
Potagere)
4.Marc Thiercelin (Fra, Active Wear)
5.Dominique Wavre (Sui, Union bancaire
Privee)
6.Thomas Coville (Fra, Sodebo)
7.Mike Golding (G.B, Team Group 4)
8.Bernard Gallay (Fra-Sui, Voila.fr)
9.Josh Hall (G.B, Gartmore)
10.Joe Seeten (Fra, Nord-pas-de-Calais/
chocolat dee Monde)
11.Patrice Carpentier (Fra, VM Materiaux)
12.Simone Bianchetti (Ita, Aquarelle.com)
13.Yves Parlier (Fra, Aquitaine Innovations)
14.Didier Munduteguy (Fra, DDP/60e Sud)
15.Pasquale de Gregorio (Ita, Wind
Telecommunicazioni)
失格
・ Catherine Chabaud (Fra, Whielpool)
・ Thierry Dubois (Fra, Solidarires)
・ Raphael Dinelli (Fra, Sogal Extenso)
棄権
・ Fedor Konioukhov (Rus, Modern
University for The Humanities)
・ Javier Sanso (Esp, Old Spice)
・ Eric Dumont (Fra, Euroka Un univers de
Services)
・ Richard Tolkien (GB)
・ Bernard Stamm (Sui, Armor-Lux/foies Gras
Bizac)
・ Patrick de Radigues (Bel, Libre Belgique)
2004~2005年:息をのむフィニッシュ
バンディグローブのレーサーたちは信じがたいペースで彼らの船を操船しました。そしてリズムは最初の数マイルで決まりました。それはもはや彼らは長い距離を走るというよりも、乗っている単胴艇の性能を最大限に発揮して彼らの挑戦者たちよりも先に行くことを確実にしようとするものでした。優勝者である Vincent Riou は 特にJean Le Camに特別に追い上げられていて、決して時間差が残っていませんでした:彼らは87日のレースの後、7時間も差がありませんでした!
今もって男たち(2名の女性も含まれていたが)にとっては単独無寄港世界一周レースは冒険でした。しかし、彼は、もはや密集してセーリングを行い、戦術的な戦いをすることを訓練されたスキッパーたちとは、同じレベルではないことは明らかでした。先頭よりも最後のほうが感動はより高いものです。競争は特にビスケー湾の中を全力疾走で走ることに似ていました。フィニステリー岬を離れると、すぐさま落ちる軽い追い風のセーリング、そしてポルトガルを離れてカナリア諸島の近くまで4日、そしてちょうど10日後に赤道に到達する非常にいい貿易風。
しかしながら追加の努力が全く別のことで必要した。わずか6人の単独航海のヨットマンたちだけが無風地帯を素早く抜け出し、逃げ出すことができました。これらの先頭集団でさえ、セント・ヘレナ高気圧の中では強く吹き下ろす風をとらえなければならないところです:高気圧帯はそれが消えるまでに数千マイルを要する障害地帯です。
そのため、彼らが喜望峰に差し掛かった時、Vincent Riou とJean Le Cam は6000マイルレースを走ったところで、お互いを視野に入れて航海をしていました。二人のセーラーは Roland Jourdain と Sebastien Josse、そして半日遅れで位置を落としていた Mike Golding と300マイル以上差を広げていました。この集団は4日以上も損をしていました。先頭集団が咆哮する南緯40度内に入った時、受ける罰は全て耐えることでした:後ろから追いかけている人たちにとっての唯一の選択肢は足を踏ん張って差を縮めることでした。そしてそれはそれぞれにとって成功するか、または失敗するかを意味していました。アレックス・トムソンはケープタウンで最初に棄権しました。Roland Jourdain は彼の艇を過酷に扱ったのでキールを損傷し、ニュージーランドへ向かわざるを得ませんでした。唯一、Mike Golding だけが Sebastien Josse をとらえることに成功しました。しかし、太平洋はすこし氷の海の牙を見せました。それは若いスキッパーの意欲を削ぎました:彼は氷山に衝突して船首を壊しました。それはフィニッシュまでのすべての道中、彼を悩ませました。先頭では、二人組が位置を上がったり下がったりし、そして航海を通して、ケープ岬まで、争っていました。それは心を許す自由な敢闘精神であったように思えます。
南大西洋ではそのようなことは起こりませんでした。高気圧帯で Jean Le Cam をとらえた時、Vencent Riou はMike Golding が彼を追い上げてくるのを鏡の中で注視していざるを得ませんでした。
船隊間は今まで以上に離れていました。先頭の3隻が二回目の無風地帯を抜けたとき、karen Leibovici は太平洋横断の半分にも達していませんでした!そしてキールへの障害が起きました。Roland Jourdain がタスマニアのホバートへ停泊した後、Nick Moloney はブラジルへ向かい、そして、Mike Golding は彼のバラストを失ったまま、レ・サーブル・デ・オロヌへフィニッシュしました。先頭集団に取ってフィニッシュは全員ほとんど興奮気味でした。PRB が今回は Vincent Riou によってレース記録をほとんど6日間縮めて打ち破り、2回目の優勝を飾りました。Jules Verne がかつてクルーをした多胴艇で記録は刷新していましたが、今回は単独航海の単胴艇での樹立でした。平均速力12.73ノット、26,714マイルを航海しました。
最終順位
1.Vincent Riou (Fra, PRB)
2.Jean Le Cam (Fra, Bonduelle)
3.Mike Golding (G.B, Ecover 2)
4.Dominique Wavre (Sui, Temenos)
5.Sebastien Josse (Fra, VMI)
6.Jean-Pierre Dick (Fra, Virbac-Paprec)
7.Conrad Humphreys (G.B, Hellomoto)
8.Joe Seeten (Fra, Arcelor-Dunkerque)
9.Bruce Schwab (USA, Ocean Planet)
10.Benoit Parnaudeau (Fra, Max Havelaar-
Best Western)
11.Anne Liardet (Fra, Roxy)
12.Raphael Dinelli (Fra, Akena Verandas)
13.Karen Leibovici (Fra, Benefic)
失格
・ Marc Thiercelin (Fra, Pro-Form)
・ Patrice Carpentier (Fra, VM Materiaux)
棄権
・ Roland Jourdain (Fra, Sill & Veolia)
・ Alex Thomson (G.B, Hugo Boss)
・ Nick Moloney (Skandia)
・ Herve Laurent (UUDS)
・ Norbert Sedlacek (Broter)
2008~2009年:バンディグローブの記録が破られる:
第6回バンディグローブは、夢、感激、勇気、自己犠牲、そして事態の中での決断を一緒にもたらしながら、壮大な規模で、人間が達成できる頂点を示しました。この2008年から2009年のレースはJean Le Cam のケープ岬での目を見張る救助と、Yann Elies のインド洋での真ん中での当を得た行為で思い出に残るでしょう。もし、私たちが驚くべき偉業を探すならば、Michel Desjoyeauxをおいてほかはありません。彼は、息をのむようなレース終盤や、実際に当初再スタートすることをしながらも、2度目のバンディグローブでの優勝を目指しました。そして、84日のレースを競い記録を塗り替えました。
多くの人がスタート前に、今回のバンデグローブは今までとは違う特別なものになるだろうと予想しました。フランス以外からの13人を含む30人のスキッパー達の中に、多くの外洋レースのすごく有名な人たちが参加していました。彼らの中には、二人の過去のレースの優勝者がいました。Vincent Riou と Michel Desjoyeaux です。
この様な豪華な顔ぶれが並んだ外洋単独レースはかつてありません。レースのごく初めの数時間から、レースは期待を盛り上げ、そしてそれぞれの位置で挑戦者たちは真正面からの、ビスケー湾を襲った悪天候という、本物の障害に遭遇しました。船隊は滅多打ちにされ、書ききれないほどのダメージを受けました:Alex Thomson, Kito de Pavant, そして Yannick Bestaven たちはレースの二日目に棄権せざるを得なくなりました。次の日には、 Marc Thiercelin がマストを失いました。このバンディグローブのスタートから選別のプロセスが始まっていました。先頭の他の5人のスキッパーたちは港に修理のため戻らなければなりませんでした。彼らの中には、41時間のハンディキャップ を背負って再度出港した Michel Desjoyeaux がいました。そうしてそれは競争が始まって以来の驚くべき再起でした。
Loick Peyron は最初に赤道を超えることによってまさに最有力候補の一人だとみなされました。その恐怖の無風地帯にいる彼の後に、Sebastien Josse, Jean-Pierre Dick, Armel Le Cleach, Vincent Riou そして Yann Elies が別の先頭集団としていました。先頭集団はセントヘレナ・ハイ(高気圧)が居座っている南大西洋に入っていきました。Seb Josse が先頭を走っていました。しかし、競争相手との差はほとんどありませんでした。そして、荒れ狂う南緯40度に入った時、彼らはお互いに視認していました。スキッパーたちとボートには強風と、荒れ狂う海で余裕はなかったことでしょう。南氷洋で、状況は再度悪くなりました。Peyron と Josse は彼らのリードをわずかばかり拡げました。そして先頭集団の残りがインド洋に入りました。 Michel Desjoyeaux はやがて先頭からわずか100マイルおくれて6位に落ちました。
11月というのは恐ろしい月です。その時海上にいる単独航海のセーラー達は、インド洋である種地獄のような状態に直面していることを発見します。Loick Peyron と Mike Golding のボートは両方ともマストがおれました。Bernard Stamm はケルグレン諸島で岩礁に乗り上げました。Dominique Wavre はキールの問題に苦しみました。一人また一人とスキッパーは棄権しました。11月18日、ドラマが次々と始まりました。先頭集団の中で順位を上げていた、Yann Elies はオーストラリアの南800マイルで大たい骨を折りました。Mark Guillemot はオーストラリアの救助隊を待つまでににコースを変えて救助に向かいました。彼はGenerali のスキッパー(Yann Elies)を事故の48時間後に保護することをしました。セーラーは救助されましたが彼の船は失われました。このエピソードはメディアの空前の報道を呼び、感動は最高潮に達しました。このことが発生した同じ時、Michel Desoyeaux はレースの先頭を保っていました。その順位を彼はフィニッシュまで保とうとしていました。太平洋では、彼はそれに値することからはほど遠かったのですが、彼は航路をリードしていました。一方で Seb Josse は彼のBTが多くの破損に見舞われて、棄権せざるを得なくなっていました。16名のスキッパー達が未だレースに残っていました。そして、Roland Jourdain と Jean Le Cam は先頭集団にしがみついていました。11月31日、jean-Pierre Dick は流氷(氷山から分離した水中に沈んでいる氷の塊)に衝突し、彼もまたレースから離れました。帆走すること56日後、Desjoyeaux はケープ岬を 数時間遅れのRoland Jourdain を従えて回りました。2人の男たちの決闘は、他のドラマがおおかた広まった後のその最後のものでした。第3位のJean Le Cam はホーン岬から200マイルの地点で転覆しました。Vincent Riou はその地点に最初に到着しVM Materriaux の転覆した船体を発見しました。かれはJean を救出しました。しかし、その途中で彼自身のボートも被害を受けました。緊急処置にも関わらず、彼のボートは翌日の夜、マストを失いました。Riou は最終的に第3位と同じ表彰を受けました。
先頭集団はレ・サーブル・ドロヌへむけて帰路を昇り始めました。しかし、再びセントヘレナ・ハイが行く手を阻みました。Desjoyeaux は クジラに衝突しながらもレースを続けていた Roland Jourdain の挑戦を持ち応え、寄せ付けませんでした。レース81日目、別のことが起こりました。Jourdain の艇からキールバルブが脱落しました。それによって、彼はレースから脱落しました。Michel Desjoyeaux は勝利のためにスピードをあげて84日と3時間9分8秒でレースを締めくくりフィニッシュラインを超えました。彼は28,303マイルを平均14ノットのスピードで走りました。前回のVincent Riou の記録を3日以上、上まわりました。
Armel Le Cleach は常に先頭集団にいました。そして偉大な2位で終了しました。Marc Guillemot は残った表彰台の位置を占めました。オーストラリア人のセーラー、Norbert Sedlacek は最後に126日間のレースを飾りました。30人のスキッパーが出場し、わずか11人がレースを完走しました。その中には2人の女性、Samantha Daivies, Dee Caffari が含まれていました。4か月間のスリリングな期間を通して熱狂した群衆が、最初から最後まで、戻って来るそれぞれのセーラーたちを待って、夜の暗闇の中でさえ、バンディの岸に沿って集まりました。彼らは忘れがたい感動の記憶とともに出かけてきました。5大陸すべての世界で、数百万のインタ―ネットユーザー、テレビやラジオの視聴者、読者が、不可能を可能にしたこの企画によって味わった、特筆すべき偉業への興奮、事故や病気の時の忍耐という財産を経験しました。海のエベレストというニックネームを完全に与えられる存在はバンディグローブをおいて他にはありません。
最終順位
1.Michel Desjoyeaux (Fra, Foncia)
2.Armel Le Cleach (Fra, Brit Air)
3.Marc Guillemot (Fra, Safran)
Vincent Riou (Fra, PRB)
4.Samanthe Davies (G.B, Roxy)
5.Brian Thompson (G.B, Bahrain Team
Pindar)
6.Dee Caffari (G.B, Aviva)
7.Arnaud Boissieres (Fra, Akena Verandas)
8.Steve White (G.B, Toe in the Water)
9.Rich Wilson (USA, Great American Ⅲ)
10.Raphael Dinelli (Fra, Fondation Ocean
Vital)
11.Norbert Sedlcek (Aut, Nauticsport-Kapsch)
棄権
・ Roland Jourdain (Fra, Veoloa
environnement)
・ jean Le Cam (Fra, VM Materiaux)
・ Jonney Malbon (G.B, Artemis)
・ Jean-Pierre Dick (Fra, Paprec-Virbac 2)
・ Derek Hatfield (Can, Algimouss Sprit of
Canada)
・ Sebastien Josse (Fra, BT)
・ Yann Elies (Fra, Generali)
・ Mike Golding (G.B, Ecover)
・ Jean-Baptiste Dejeanty (Fra, Maisonneuve)
・ Loick Peyron (Fra, Gitana Eighty)
・ Bernard Stamm (Sui, Cheminees
Poujoulat)
・ Dominiqu Wavre (Sui, Temenos Ⅱ)
・ Unai Basurko (Esp, Pakea Bizkaia)
・ Jeremie Beyou (Fra, Delta Dore)
・ Alex Thomson (G.B, Hugo Boss)
・ Yannick Bestaven (Fra, Aquarelle.com)
・ Marc Thiercelin (Fra, DCNS)
・ Kito de Pavant (Fra, Groupe Bel)
2012~2013年:忘れがたい地球を巡る戦い。
第7回バンディグローブは歴史に名を残しました。初めて2人のセーラーが80日以内で完走しました。Francois Gabart とArmel Le Cleach は地球を巡って情け容赦ない、そして忘れえない決戦を戦いました。冒険は78日間のセーリングで終わりを告げました。彼らの間には、レ・サーブル・ドオロヌでのフィニッシュにわずかの時間差しかありませんでした。出発したほかの18人の挑戦者たちは、それぞれが彼ら自身のゴールをしました。彼らは数百万人のフアンに冒険と自由に広く開かれた世界への夢を与えました。私たちは2012年から2013年のバンディグロブでの偉大な出来事を振り返ってみましょう。
8名の外国人を含む20名のスキッパーが2012年11月10日のスタートラインに並びました。百万人以上の人がレ・サーブル・ドオロヌでスタートの号砲が鳴った時、彼らの幸運を祈って表れました。このレースを戦う唯一の女性は イギリス人セーラーの Samantha Davies はポンツーンの上で多大な期待をかけられていました。しかし、かつての優勝者たち、Vincent Riou そしてこれらのすでに表彰台に上がった、 Marc Guillemot, Armel Le Cleach, Jean Le Cam, そして Mike Golding のような人たちにも相当の興味が注がれていました。最終の成果は明らかに多くの人に広く開かれています。これらの半分の人には優勝の色々なチャンスがあったと言えたでしょう。その時点では、多くの人はハッキリとFrancois Gabart に賭けていませんでした。
最初から、レースは幾人かにとっては残酷になりました。Bertrand de Broc はスタートエリアで衝突して港に修理に引き返しました。彼は再び出港しました。不運はMarc Guillemot のケースだけではありません出した。レースが始まってちょうど5時間後、彼のサフランはチタニウムのキールを失いました。先頭では、すでにFarancois Gabart, Armel Le Cleach, Jean-Pierre Dick, そして Bernard Stamm が航路をリードしながらビスケー湾をハイスピードで帆走していました。すぐ後にこれ以上にないダメージが襲ってきました。レースが始まって10日後、Kito de Pavant はトロール漁船にぶつけられました。そしてレースを棄権せざるを得なくなりました。2日後、同じ理由で最も若い挑戦者、Louis Burton は同じ運命に苦しみました。11月15日、それは Samantha Davies と彼女の Saveol の番でした。彼女はマディーラから100マイルのところで、マストを折りました。18日には、Jeremie Beyou がバーデルズランド岬へ向かわなければならなくなりました。そして彼のキールラムの先が折れたことにより棄権しました。海に出てわずか1週間で、5隻のボートが競争から外れました。
20隻出場し11隻がフィニッシュ
それは運命の残酷な仕打ちでした。しかし、船隊の4分の1は先頭ですべてが順調でした。カナリア諸島を過ぎ、アゾレス高気圧は先頭集団の行く手に膨らみ出ていました。彼らの技術と新艇の性能によって、自分たちのために頑張り続けている Armel Le Cleach, Frncois Gabart, Jean-Pierre Dick, Vincent Riou, Bernard Stamm そして Alex Thomson の6人の先頭集団がすぐに結成されました。Mike Golding は300マイル以上遅れていました。赤道で、Aremel Le Cleach は Francois Gabart, Jean-Pierre Dick, そして Vincent Riou に5時間先行していました。11月21日に、ポーランド人のスキッパー、「Gutek」Gutkoswki は彼のオートパイロットの深刻な故障で棄権することに直面していました。スタートから10日でわずか14名しかレースに残っていませんでした。
無風地帯と南半球の新鮮な風はすでに先頭で2つのグループを形成していました。前述した6艇と、300マイル後ろの国際色のある3艇、フランス人セーラー、Jean Le Cam, スイスの挑戦者、Dominique Wavre,そして イギリス人レーサーの Mike Golding です。レースが別の事故に遭遇していたとき、彼らはセントヘレナ・ハイの西側へのいい進路をとっているように見えました。11月24日、ブラジルのPRBは定置ブイに衝突しました。それは海の真ん中を漂っていました。不運な信じられない物体、それによりVincent Riou は棄権を余儀なくされました。
レースの中のレースでの記録的な日々とレース
先頭集団は1日に450マイルから500マイルを刻んで、前に荒々しく進んでいました。レースの中ですでに、5隻の先頭集団、3隻の追撃しているボート、そしてメディアからまったく注目されていない、彼らの楽しさがお互いに極めて感染しやすい、Arnaud Boissieres, Javier Sanso, Bertrand de Broc, Tanguy de Lamotte. そして 陽気なシシリア人、Alessandro di Benedetto から成る、最後尾の5隻の、3つのレースが展開されていました。
喜望峰で、Armel Le Cleach は彼のライバルたちを非常にわずかにリードして、22日と23時間の中間新記録を達成しました:Jean-Pierre Dickを3時間先行し、4時間Francois Gabart に、そして6時間Bernard Stammに先行しました。そしていま彼らは南氷洋、インド洋、黄泉の国に入りました。20から22ノッの高速でそれぞれの氷山の入り口の前で信じがたい戦いがありました。12月10日、Francois Gabart は少し眠りながら、1日で信じがたい534マイルを帆走しました。彼はこれで Armel Le Cleachを射程に入れました。これで、2隻のかつてのフィガロ・レース出場艇は情け容赦ない決闘で折り返し点を通過しました。それらはJean-Pierre Dickにわずかに先行し、そしてもう少しBernard Stamm とAlex Thomsonに先行していました。
起こった出来事はArmel と Francois が少しばかりいい天候の中に飛び込んだことです。そして彼らはそれをやった唯一の艇でした。次の4日間、彼らのリードは驚くべき距離を伸ばし続けました。12月14日、Virbac は先頭より300マイル遅れていましたオーストラリアの下に下がったところで、私たちは Francois と Armel が互角に並んで戦う、信じがたい決闘を見ました。彼らの後ろとは差が広がっていました。ニュージランドの経度のところで、 Lean-Pierre Dick はいまだ3位だでした。しかし先頭とは600マイル離れていました。二人組を組んだStamm-Thomsonはそのとき900マイル後ろにいました。その時、別の事故が起こりました。Bernard Stamm はオークランド諸島に係留して彼の水流発電機を修理するためにピットインしなければならなくなりました。しかし、停泊することがスイスのセーラーを悪夢に落とし込みました。Cheminees Poujoulat 号は走錨して、Bernard は座礁を逃れるために、ロシアの科学調査船の舷側に係留せざるを得なくなりました。致命的なミスでした。許可を得ることなく、水夫がCheminess Poujoulat号の甲板に飛び降りて修理をする彼を助けました。それ故に審判員は彼は助けを得たと考えました。bernardは失格しました。彼はダニーデンとそれからホーン岬の後と、さらに2回停泊しました。しかし、レース外で彼の帰港の航海を完走しました。
しかし、太平洋の終わりまでに、最初の4隻の順位が多かれ少なかれ決まりました。2013年の1月1日、Francois Gabart はケープ岬を一番で回りました。ちょうど80分ほど Armel Le Cleachの前でした。彼は3位のJean-Pierre Dick に1日半、そして4位のAlex Thomson に2日リードしていました。レースのその時の海図を見るとそれは全く現実離れしていました。Armel と Francoisが西大西洋を上っていた時、6隻のボートはいまだに太平洋の真ん中にいました。2隻の別のボートはちょうどニュージランドの入り口を通過したところでした。そして、離れた海で、Alessandro di Benedettoはオーストアリアの経度にいて最後尾を務めていました。
結果が出る時が来た南大西洋
それは2013年の最初の週でした。結果が多かれ少なかれ決まりました。まず最初に、ジェネカー(船首に出す帆の一つ)に技術的な重要障害が発生し、Armel Le Cleach は数マイルを失いました。「ジャッカル」はもはや西に向かう選択肢を取って、ライバルとの接近戦を残すしかありませんでした。しかし前方では、Francois Gabart がパニックにならずにうまく制御していました。彼はブラジル沿岸を離れて彼のリードを伸ばしていました。Francois Gabart はどんなミスも犯しませんでした。そして早いスピードで帆走していました。大変に早かった。彼のリードは100から250マイルに達していました。しかし今もってアゾレス高気圧と戦わなければなりませんでした。そしてその地帯の右側で、Armel は90マイルを戻りました。運命が1月22日に襲いました。すでにダメージに苦しんでいて、7度目のマスト登りをせざるをえなかった、Jean-Pierre Dick は彼のキールを失い、そしてそれによって表彰台に上がる望みも失ったことを発表しました。
Alex Thomson はその時4位にいましたが、彼に近づくコースを選びました。このケースについて、「Alex、感謝する。君の3位を守れ。」Virbac-Paprec 号のスキッパー(Jean-Pierre Dick)は Alex に告げました。
先頭では、Macif号 の勝利が確実になっているようにみえましたが、最後の数千マイルで戦いが続いていました。1月27日、感動的な結果が出ました。Francois Gabartが多くの群衆が彼に拍手喝さいしている港の水路に入ってきました。Macif号の若いスキッパーはバンディグローブの最も若い勝利者になろうとしていました。そして80日以下で初めて航海を完走した最初の人になろうとしていました。78日と2時間16分40秒でした。Michel Desjoyeaux の記録はほぼ6日破られました。3時間後、 Armel Le Cleach がこの素晴らしい機会に群衆の喝采を受けていました。彼は海のエベレストを2回目続けて2位で完走しました。
Alex Tomson は2日と7時間遅れて、3位で表彰台に上りました。キールを失ったJean-Pierre Dick は4位でフィニッシュを成し遂げました。一方で、javier Sanso はアゾレス諸島で転覆してしまいましました。jean Le Cam は、9日と21時間優勝者に遅れて5位で2月6日にフィニッシュしました。
全部で11人のセーラーたちが順位を付けました。Mike Golding 6位、88日と6時間で完走。Dominique Wavre 7位、90日。Aenaud Boissieres 8位、91日。Bertrand de Broc 9位、92日。Tanguy de Lamotte 10位、98日。Alessandro di Benedetto は2月22日104日のセーリングの後、彼の陽気さで公衆を引き付けて、素晴らしい歓迎を受けて母港に戻ってきました。彼はまた、Francois Gabart に26日遅れてのフィニッシュでした。この時点で大変な成果でした。
最終順位
1.Francois Gabart (Fra, Macif)
2.Armel Le Cleach (Fra, Banque Populaire)
3.Alex Thomson (G.B, Hugo Boss)
4.Jean-Pierre Dick (Fra, Virbac Papree )
5.Jean Le Cam (Fra, Synerciel)
6.Mike Golding (G.B, Gamesa)
7.Dominique Wavre (Fra, Mirabaud)
8.Arnaud Boissieres (Fra, Akena Verandas)
9.Bertrand De Broc (Fra, Votre Nom autour
du Monde avec EDM Projet)
10.Tanguy De Lamotte (Fra, Initiatives Coeur)
11.Alessandro Di Benedetto (Fra, Team
Plastique)
失格
・ Bernard Stamm (CH, Cheminees
Poujoulat)
棄権
・ Javier Sanso (Esp, Acciona 100%
EcoPowered)
・ Vincent Riou (Fra, PRB)
・ Zbigniew Gutkowski (Pol, Energa)
・ Jeremie Beyou (Fra, Maitre Coq)
・ Samantha Davies (G.B, Saveol)
・ Louis Burton (Fra, Bureau Vallee)
・ Kito de Pavant (Fra, Group Bel)
・ Marc Guillemot (Fra, Safran)
Translated by Watson Courtier as of July 16 2016.
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