2018年3月27日
日本人の単独レーサーである白石康次郎は、前回のバンディグローブで、2016年11月4日に彼の艇「スピリット・オブ・ユーコー」号のマストトップが折れて、11月7日に短くなったマストで350マイルを航海して喜望峰に到着する前にリタイア―せざるを得なくなってしまいました。しかし、彼のいままでの歩み、そして、いつも微笑みを絶やさない、暖かい彼の人柄は彼をこのレースで非常に優れた、そしていつまでも続くいい人柄を持った人間の一人にしました。インタビューをご覧ください。
最初の失望の後、彼はかなりの尊厳と冷静さを示し、彼が世界中を回ることから得た多くの支援者たち、そして、特に競争相手の単独航海のスキッパー仲間達とはっきりとふれあいました。
こうして、日本人挑戦者として初めてのレースを失い、このレースにスタートした初のアジア人でしたが、すぐに彼はすべてのセーリングの人生の中で温めた彼の夢を完結させるために2020年のレースに戻ってくることを誓いました。
白石康次郎のあきらめたその地点までの彼のレースを振り返ると立ち上がりがゆっくりだと思える何かが起こっていました。彼は恐ろしく体を衰弱させる船酔いに苦しめられました。しかし、いったん、船酔いを克服すると彼はFarrが設計したSpirit of Yukoh号をを駆って船隊の中で安定した走りを見せました。この艇は、Estrella Damm号としてスタートし、その後、Alex ThomsonのHugo Boss号として2012-2013年のレースで3位になっています。彼はリタイアーした時、Nandor Fa、Conrad Colman、Stephane Le Diraison、Arnaud Boissieres達の中に入って激しい競争を行っていて、12位でした。
おそらく、白石康次郎が優れた外洋レーサーで、また航海の経験が深いということはしばしば見落とされています。彼は1996年、26歳の時に世界一周航海をした最も若い日本人セーラーになりました。そして2003年のアラウンド・アローン世界一周レースを完走し、そして、それから2006-2007年のVelux 5 Oceans 世界一周レースで2位になりました。そして、康次郎はBrouno PeyronとLionel Lempnchoisと一緒に外洋横断(太平洋)双胴艇記録を達成しています。
彼の願望はバンディグローブの完走です。そしてこの目標は今まで以上に今日、彼を駆り立てています。しかし、彼の心に残る師匠である多田雄幸氏の伝統を思い出すと、それはSpirito of Yukoh(雄幸の精神)であるがゆえに、それが彼の道しるべになっています。白石康次郎は、かつて、不幸にも1991年のBOC チャレンジレースの途中で自分の命を絶ってしまった、東京のタクシー運転手であり、壁塗り職人であり、そして詩人であり、外洋レースに出て世界一周をした師匠、多田雄幸氏の「弟子」でした。
白石のバンディグローブは日本で10万人のフォローアーに広まりました。ヨットを日本に持ち帰り、再度予備のマストに交換して以来、彼は、日本中を回り、フアンと会い、熱烈な現在のスポンサーのために働き、そして、見込みある新しいスポンサーと会うことをして、社会に対する彼の計画を示すために勤勉に働きました。
彼はこのレースシーズン中にヨーロッパに艇を持っていきたいと思っていました。しかし、まだ十分な予算が集まっていません。彼は、彼の見込みのある支援者達は単独無寄港世界一周レースを理解し、盛り上がっていると記しています。しかし、前提条件となる積み上げのレース参加とグローブシリーズノ条件を彼らにわかってもらうのは容易ではありません。
VG:生活はどうですか?今現在は何が起こっていますか?
日本で今多くの出来事があります。私は次回の2020バンディグローブで完走できるようにするため、常にスポンサーを探しています。私たちはマストを折った後、艇を船積みし、日本に送り戻しました。そして昨年の夏には日本の海で私と一緒に航海するために数百名の人々が来るという大変なキャンペーンをしました。
VG:あなたがバンディグローブをリタイア―して失意のどん底に落ちてから回復するまでに、どのくらいの時間がかかりましたか?立ち直るために何か具体的なことをしましたか?
私に取って本当は、失望していた時期はマストを折ってから南アフリカに到着するまでの時間でした。なぜなら私は私を励ましてくれる世界中の人々からの数千のコメントを読み、それによって立ち直ったからです。失意はそのことを知って帳消しになりました。そして、如何に多くの人々が私を支援してくれているかを知ったことで、それ以来私は本当に奮い立ちました。私の全スポンサーは私がレースをリタイア―したという事実について大変に前向きに対応してくれました。そして、彼らは私の次のキャンペーンについても再び私を支援することに大変に前向きです。
VG:あなたは艇を日本に持ち帰っていますが、それで何をしたのですか?新しい艤装をするのですか?
私のチームは艇を再び浮かべるために素晴らしい仕事をしてくれました。目的は艇を水に浮かべて日本で広報活動をすることです。そして、私たちが艇をフランスに持って帰った時に競争をする態勢に艇を戻しておくことを念頭において、易しい共同作業とゲストを載せた航海をするするためです。このために私たちはサザンプトンで艇の上に置いていた古いマストを付けることを決めました。そして、それをコンテナーに載せて日本に持ってきました。現在、私たちは艤装の変更と装着をしています。もし、私たちが十分な資金を得ることができれば、私はフォイルを付けたいと思っています。しかし、それは優先順位が高くありません。
VG:今までにどのような航海をしましたか?他の艇も操船しますか?
私は夏の間、数百人の人々と、多くの航海をしました。私は日本でいくつかのレガッタ(競技)に参加しました。しかし、いくつかの競技は橋の下をくぐれずリタイアしました!資金を得るために、私は一緒にゴルフをすることで多くのスポンサー達と会いました。もちろん、私は多くの説明を行い、数千の日本の熱心な人たちの前でトークショーをしました。
VG:あなたがレース中に何とうまくいったことか、とすごく驚いたことがありますか?あなたの強味、弱味は何ですか?
最初の私が完走したアラウンド・アローンレース以来、私は違ったスタイルのレースをしたことはありません。私はいつもひどい船酔いのためスタート時はゆっくりなのです。そして、いったん感じがよくなり始めるとすごくよくなります。私は、風や波という自然に対する感覚がよくなり始めます。それらは私の直感を鋭くします。マストが折れた時、私は覚醒して感覚は本当に鋭敏でした。しかし、これは神様が私に与えた試練だと思いました。神様は私にそのままいけ、先を見ろ、そして決して諦めるな、告げていました。
VG:母国でのあなたへの注目度はどうでしたか?バンディグローブ以来さらにいいことがありましたか?
母国での注目度は恐ろしいほどでした。私たちは一週間で数百万人が見るテレビ朝日の生番組でのインタビューを受け、そして、同じく私にとってだけでなくバンディグローブにとっても特別プログラムになった、NHK(国営放送)の特集がありました。それは日本でレースを促進する手助けになりました。また、私は2016年のスポーツマンシップ賞をいただきました。最初、私は驚きました、なぜなら2016年はオリンピック、ワールドカップで日本は驚くべきスポーツの年だったからです。私は何の成果もあげていないので、賞をもらうのをためらいました。しかし、同じく考えました。賞をもらうということは、失敗が誰にでも起こりうるということを人々に示すことで、それはいいことではないか。それが私が賞を受けた理由です。私は自分が有名人だと考えたことはありません。私が、なぜ、また、何をするのかという唯一の理由は私がすることに注目している全ての日本人にポジティブな思考を与えるためです。
VG:あなたの資金的な状態はどうですか?新しいスポンサーまたは同じスポンサーを得ましたか?
私の資金的な状態は私が思う状態ではありません、しかし私は楽観しています。今年にはヨーロッパでのセーリングに参加したいと思っています。しかし、時間的な猶予や新しいマストを得ないといけないとか、その他もろもろの課題を考えています。私たちには時間がないのです。私は常に新しいスポンサーの役員と彼らがこの素晴らしいプロジェクトに参加してもらうために会議をしています。ほとんどのスポンサーが次回のバンディグローブで私を支援することを了解しています。しかし、実際のバンデイグローブより前の期間にスポンサーが必要であるということまでは理解してくれていません。私は未だ新しいスポンサーを得るために努力しています。いずれにしても、資金の過多によりますが、私は新しい艇を持つか、または、今持っている艇よりももっと競争力のある艇を持ちたいと思っています。
VG:2020年に向かってあなたの計画は?
2020年は日本では重要な年です。東京オリンピックがあります。そして同様に私はバンディグローブ船隊の一画を占めたいと思っています。まだ確実ではありません。私たちが艇を戻す(ヨーロッパに)ことができるかどうかは資金にかかっています。しかし私はグローブシリーズを意識しています。そして、私は本当にできるだけ早く艇をヨーロッパに戻したいと思っています。
VG:あなたは他のスキッパーたちと交流してますか?2016-2017大会の後、今、何があなたのレースに対する見解ですか?
思いとは別に私は他のスキッパーたちと直に交流していません。私は日本を全てのスキッパーたちに見せたいと思っています。そして彼らがここに来てほしいと思っています。2016年からだけではなく、私が初めて外洋レースをして最初のフィニッシュをした2002年以来、外洋レースの変わり方を身近に見てきました。振り返ると、それはもっと冒険、サバイバル・レースに近づいています。今、それは大変にプロのレースになっています。常に深化したすごく競争力のある艇になっています。そして私はこの潮流が変わるとは思えません。実際は、私は私たちスキッパーと呼ばれる人たちが常にお互いに助け合い、誰もが楽しめ、もっと冒険的だった、かつての良き時代が好きです。
若い血
一方で、白石は彼の経験を伝え、若い日本人セーラー達が外洋レースへの挑戦を楽しめるようにするための手助けをすることを大変に意識しています。彼は2人の若いクルーメンバーを採用しました。彼らは昨年ユース・アメリカズカップ・チームジャパン、カイジン・ジャパンのメンバーの一員としてバミューダにいました。Federico Sampei 22歳、Simon Suzuki 27歳は康次郎と昨年の秋に会いました、そして、来てプロジェクトを手伝えるかどうか尋ねました。
「彼らは若く学ぶことを熱望しています。そして二人とも大変にうまい英語を話します。更にSimon は片親がフランス人なのでフランス語も大変に上手です。」長く広報の責任者をやってきた神田翔太氏は、「彼ら二人とも次のバンディグローブ・プロジェクトのフランスでの一員となるでしょう。そして、彼らはチームに取って偉大な新しい資産になるでしょう。」
今月(3月)彼らは艇を海に出すのを手伝いました。そして、汚染防止のためにすべてを取り換える素晴らしい仕事をしました。
康次郎は言いました、「私より若い人がIMOCA艇を学ぶのは素晴らしいことです。私が始めた資産を引き継ぎたいと思う若い情熱のあるクルーを見つけることは至難の業です。」
外洋レースは日本では非常にマイナーです。そして、スポーツとしては見られません。おそらく単独航海レースをした日本人セーラーは5人にも満たないでしょう。艇を日本に持って帰った理由の一つは、故国での外洋レースの見方への変化を創造するためでした。そして、将来世界でレースができる若い血を得るためでした。
長くかけて康次郎はバンディグローブや他の大きな外洋レースに挑戦する若い日本人をコーチすることをしたいと思っています。
翻訳:Watson Courtier as of 17th Apr. 2018